春の窓を開くと、私は新鮮な空気を胸いっぱいに吸い込んだ。アルプスの清涼な空気が胸を満たし、心に浮かんだ清らかな湖を軽やかなそよ風が通り抜け、フランス語のメロディと融け合った。立ち並ぶ屋根と小さな塔の間に、ローカルラジオのおしゃべりが快活に流れている。窓の外には、細い道に沿って人々がゆっくり走り、バスがのんびりと進み、車が流れていくのが見えた。

ジュネーヴの大噴水は、日曜の午後の時間を刻んでいた。背後で電話が鳴る。

 

─もしもし、着いたよ。

─よかった! フライトはどうだった?

─すごくきれいだった。あの高さから眺めるジュネーヴはすばらしいね。絵画のように美しい山々、湖、小さな家々……僕たちは、町の上を高く飛行する鷹のように飛んでいたんだ。壮観な眺めだったよ……

─すばらしいね。

─ちょっとまって。ごめん、かけ直す。

 

私は着替えて階下に降りた。雲が広がっているが、外はとても明るかった。鼻歌を歌いつつ夜の演奏会のことを考えながら、ゆっくりとカフェに入る。携帯が再び鳴った。

 

―聞いてよ、さっき電話で話しながら歩いていたでしょう、そうしたら突然、僕の名前がアナウンスされているのが聞こえたんだ、  コーリャの声が聞こえる。

―君のコンサートの案内のアナウンスだったんじゃないの。 私は冗談を言った。

―あはは、そうだね。それで、アナウンスはあるカウンターに来るようにと言っているんだ。行ってみると、「申し訳ありません。ご不便をおかけしてすみませんが、荷物を積む際に手違いがあったようで、あなたのスーツケースは別のフライトに積み込まれてしまいました」って。考えられる!

―そんな、まさか。どうしたらいいって?!

―そうなんだよ! それで、今夜僕はコンサートがあって、スーツケースの中に必要なものが入っているのですがって言ったんだ。でも彼らはただ謝ってばかりで。

―それじゃあすぐに買いにいかないといけないね。

―ちょっと続きを聞いて。それで、彼らに僕のスーツケースはいつ届くのか聞いたんだ。そうしたらなんて言われたと思う?

―なに?

―僕の荷物は別の近いフライトに載せられているから……よく聞いてよ! 40分後くらいには着くって!

―なんだ、彼らはずいぶん時間を大事に考えているんだね、そんなに謝るなんて。

―そうなんだよ、僕の中ではもう腹の立つ気持ちは過ぎて、どこのお店に買い物に行こうかと考え始めていたっていうのに。ちょっと待てばいいだけだったんだ。安心したよ。

―運が良かったね。それじゃあ荷物を受け取ったらすぐホールに行ってリハーサル?

―うん、あまり時間がないよ。

 

リハーサル会場は、集中とやわらかなベルベットの明かりに包まれていた。ピアノの音が流れる。天上からまっすぐに下りるライトの中、まるで大きな音楽の湖の中に浮かぶ島のように、グランドピアノが置かれていた。

 

 

 

コンサートまでの時間はすぐに過ぎた。ホールには胸を高鳴らせた聴衆と、音楽通の会話、ファンの熱い期待、そして目に見えないラジオの聴衆の気配で、あっという間にいっぱいになった。

 

ライト。ドアが開く。ホールは聴衆でいっぱいだ。人々は、すばらしい世界に旅することへの期待でみんな幸せそうだ。

 

ニコライがステージに現れ、拍手が起きる。彼がピアノのもとに座り、一瞬の間があって、ベートーヴェンのソナタの最初の音が流れる。靄は端に退き、リリカルなメロディが空間を満たした。ロマンティックな風景が、夢のような透き通った海の上に漂い、周囲に反射する光が流れた。鋭くターンすると陸が現れる。我々はすでに、エネルギーと音に満ちた熱狂的なダンスの中で、張り切ったあわただしい人生を急いでいる。夢がゆっくりと溶けて消えてゆく。すると新しい変化があり、私たちは集中した思いに沈んでいった。想いはより深く、強くなる。きめ細かいベールを通り抜けるように、私たちの道は、光に向かっていた。何かが光った! 閃光が輝いては消える。ピアノが揺れ、私たちはニコライとの旅を続ける。和音、もう一つ、そしてもう一つ光が見える。また光線、そして私たちは光の王国にたどり着く! 淡い色彩の音、光がざわめき、アルペジオの泉が流れ、空には壮大な山々の影が現れた。

ブラヴォー!

静寂が終わり、音がさまよう。この道は我々をどこへ連れてゆくのだろう? するとその圧倒的な渦の中で、我々はダンテの不朽の一節を聞いた。

 

かくして私は第1圏から下り

第2圏へと入った。その空間はより小さいが、

苦痛はよりいっそう大きく、悲鳴を上げさせる。

 

目の前に、煩悩という致命的な果実を味わった罪人の影が見えた。狂乱のペースの中で、周囲のすべてのものが渦巻いていた。道筋はうねっている。雷のとどろく音が聞こえ、暗闇があたりを包み、消えかかる影の泣き叫ぶ声が恐ろしいほどだ。

 

突然、ぞっとするような光景の中に、希望のような音が聞こえた。洗脳されたようにピアノの後ろについて走っていくと、どこか遠くから夢のベルの音が聞こえた。神々しさ。力強く、途方もなく、激しくピアノが歌う。歓喜とよろこび。すべてのものが抑えきれずに拍手喝采をした!

 

しばしの休みがあって、再び前へ進み、今度はすばらしいショパンの世界へ入っていく。平和な静けさの中で歌が流れ、緑の草地があらわれ、芝の葉先がゆれ、湖のさざなみは太陽の下で遊んでいた。神秘的な静寂。

 

その月の光の中に姿を現したのは、誰?

突然旋風がまきおこり、波が起きて私たちはこの世界に飛び出した。湧き出したパッセージが夜の中に溶け出すと、嵐は静まり、一息つくことができた。田園。束の間流れる静けさ。我々の目の前に、山々に抱かれた大きな湖が広がる。その美しさは隠された秘密のようだった。その静寂の中で、密やかな不安と情熱的な呼び声が聞こえる気がした。

 

風が暗い柳を揺らしている。嵐のような波がこみ上げ、絶望とともに悩みが大きくなり、波は猛烈な怒りとともに沸騰する。湖、山々の間に起きる暴力的な旋風がホールの中に巻き起こる。閃光、もう一つ閃光……和音、そして再び嵐に抱かれた旋風……なにもかもが静まっていった。山の湖の表面の静かなさざ波だけが残された。そして水の輪の中のエコーだけが、山の谷間に聞こえていた。

 

色鮮やかな夢の響きの世界の中、ファンタジーの最初の音が現れた。どの音にもメロディアスな歌が隠され、デリケートな濃さの影の下、私たちを遠くまで運んでいった。音が泡立ち、感動的な景色が水平線を覆っていた。トリルと優美な音がとともに、メロディが流れていく。ダイナミクスとパワーが積み上がり、自分たちがすてきな感情に捕らえられていることに気がつく。私たちの行く道は、消滅や啓発、気高さと似ていた。ダイナミクスはより大きくなり、ニコライとともに、私たちは感情の動きの中で流されていた。

 

するとミステリアスで静かな音が鳴り、湖の靄のなかに、優美な白鳥の輪郭がゆっくりと現れた。彼女は山の湖と星の輝く夜空の中を滑るように進んで行った。夜の魔法のような雰囲気がたちこめてきた。スムーズな動きだけが耳に届く。魅惑の霧に包まれた夢。なにもかもが、不思議な世界の、透んだ美しい歌に包まれているようだった。

 

激情と情熱が、自分が意識していた物事をとり去ってしまったように、消えていった。メロディが聞こえ、湖の滑らかな表面に勝利の音が広がっていた。まるで、夜の湖の靄の中に2羽の白鳥が見えるようだった。それは輪を描き、純粋で崇高な夢の妖精のガーゼを溶かしていくようだった。重力のないファンタジーは、永遠の星の光の中で、鳥たちが夜の夢に溶けていくことを予見していた。

 

 

喝采が、私を夢とファンタジーの世界から目覚めさせた。聴衆の拍手が包むその喜びの中で、コーリャの声が響いた。

ジョルジュ・ビゼー、カルメン!

 

すでに私たちは、旧市街の細い道を走り下りていた。我々は広場に出る。少年、労働者、兵士が通り過ぎる。ああ! たくさんの人がいる。いたずらな笑顔があらわれ、情熱的なダンスがまわりの人々を魅了する。カルメンは私たちに近づく。彼女はなんて妖艶、優雅、物憂げで魅力的なのだろう。エレガントで美しい。その真珠の情熱的なダンスの前には、なにもかもが溶けてしまう。誰も彼女の燃えるような愛のメロディに抵抗できない。なんという熱烈な愛、香り! 誰もが踊り出していた。なんという夜だ! カルメンの踊り。彼女のショールが天国的なカーニバルのゆらめきの中で旋回していた。

 

 

 

飛行機に搭乗し、階段を上って滑走路を眺める。なめらかに、平和に、ジュネーヴの湖の白鳥のように、遠くで飛行機がその上を滑る。太陽がゆっくり沈んでいく。

 

飛行機の中で、私たちは写真を見ていた。ジュネーヴは素晴らしい街だ。小さな道に、素敵な家や石畳の路地がある。王にしか備わらないような気品とともに、ここでは時間がゆっくり流れている。ここの白鳥たちは澄み切った湖を泳ぎ、水平線は壮大な山々に飾られていた。

 

―見て、サン=ピエール大聖堂だ、本当に雄壮な建物だよね。  そう言ってコーリャは写真を大きくして見せた。 ―すばらしい建築だ!

―本当だ、この八角尖塔はジュネーヴの大噴水のようだね。天国につながっているみたい。

 

 

 

―あっ、偉大な思想家がいる!  私はその隣の写真を指した。

―ああ、ジャン=ジャック・ルソーだ。傑出した存在だね。  コーリャが言う。

―僕が言っているのは、そのコートを着た巻き毛の思想家のことなんだけど

私たちは笑って、次の写真をめくった。

―見て、なんて美しい街並みだろう。塔や古い家々があって。そこには調和がある。
 

 

 

 

我々の飛行機は高度を上げた。どこか遠く、花時計の反対側に、人々の暮らしを刻むジュネーヴの大噴水が見える。そして、美しい夕暮れのさざ波が立つ湖面に、白鳥たちが滑らかに浮かんでいた。

 

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April 2nd 2017 in Geneva

Program:

Beethoven - Sonate no.31 Op. 110

Liszt - Années de pèlerinage - Deuxième Année

Chopin - Ballade no.2 Op. 38

Schumann - Fantaisie Op. 17