ソチの空港は、到着ロビーのガラスドアからさしこむ太陽の光にあふれ、そして出迎えるドライバーたちの誘いの声が私に降り注いだ。彼らは熱心な動きでまるで演劇のように方向を指し示し、私を連れていこうとした。尽きることない出迎えの人混みとヤシの木のフレッシュな緑のネームプレートを通り抜けると、かすんだ山からゆっくり下る風がかすかに漂ってきた。

私は立ち止まって目を閉じた。

 

どこかからモーツァルトのピアノ協奏曲が聞こえる。はっきりした音ではなく、それは空間に溶け込み、私が息をしている空気にかすかに触れているようだ――太陽の光の筋の中を漂う塵の粒子が、きらめく家々の奥へ流れていくように。このすばらしい音楽はどこから流れてくるのだろう? もしかすると、空港のどこかで誰かが音楽を楽しんでいるのだろうか? それとも、弟が私をからかっているのか?


私は目を開けてあたりを見回した。人の間に、私に笑顔をむける一人の男性がいた。その手の中には「Welcome!」の文字が抱かれていた。

 

―すばらしい天気ですね。  高速道路で車を走らせ、オリンピック五輪のそばを通りすぎながらドライバーは言った。 ―ここ数日雨が続いていたんですよ。昨日ようやくやみました。天気予報によると、今日は暖かくなるそうです。やっとね!

―ええ、すばらしい晴天ですね。正直、この場所では夏が永遠に終わらないのかと思っていましたが、きっと昼寝でもしていたんでしょうね。 私は答える。
ドライバーは笑って、冗談ぽくウインクをした。 ―私はいつも、我々が住んでいるのはパラダイスだと言っているんです。

 

私たちは、山間の曲がりくねった道を通り、ヤシの木ときらめくホテルの間を飛んでいた。トンネル。ふたたび光。急なカーブ。車はスピードをあげ、いつしか窓の外の景色が不明瞭となるほどになっていた。私はドライバーに目をやった。彼は電話で感情的になにかを話し、笑い出したり、大きな声を出したりしている。もしも翼があったら離陸していただろうという考えが頭をよぎる。そして私たちはトンネルに飛び込んだ。


私がドライバーの熱心な会話を遮ろうかと思ったちょうどその瞬間、木々がわかれ、地平線が限りなく青い海で満たされた。まるでやわらかなブランケットがあたりを覆いつくすように。海は空に溶け込み、地球は姿を消してしまったかのようだった。もしかすると、私たちは本当に離陸して空を飛んでいるのではないだろうか。

 

水平線に鳥たちが現れ、すると再び、朝の太陽の光のようなかすかに耳にできるくらいの音で、モーツァルトのピアノ協奏曲が静かに空気の間を流れてきた。それはまるで鳥たちが青空のなかを泳ぎ、翼にのせて、このミステリアスなメロディを運んでいるかのようだった。車がスピードを落とすとともにドライバーも話をやめ、スムーズに、穏やかさと静けさのなか、濡れたアスファルトのうえを滑っていった……


 

ギリシャ風の円柱の傍らにブロンドの巻き毛の若い男が立ち、にこやかに笑いながら、私に手を振っていた。私は青々としたヤシの木の陰から出てポーチコの階段をかけ上がった。我々は抱き合う。


―旅行はどうだった?  笑顔のニコライがたずねる。
―ドライバーは元パイロットだったに違いないよ。もう少しで管制室の司令官が次の指示を出すところだったんじゃないかな。 僕は答えた。

 

コーリャは気の毒そうに笑った。

 

―僕はずっと風と競争しているみたいだと思ったよ。でも本当に美しい風景だね!  青空に飛びたっていくかもめを見た?  ああ、それに、海岸の小石をさらさらと鳴らす波は、まるでピアノの鍵盤に触れているみたいだと思った。僕も目を閉じて、一緒に演奏したんだ。  ニコライは優しく言った。


私は、空港で空気のなかに漂っていた音楽を思い出して、あたたかく幸せな気持ちになった。

 

―海岸のほうまで歩こう。海辺を見て、それからカフェで地元の料理でも食べよう。 コーリャが提案する。
―もちろんそうしよう、ちょっと部屋にバックパックを置いてくる。 私は答え、ギリシャ風の円柱に目をやった。柱頭の一つがその繁った葉を傾けて、にこやかに私にウインクをした。

 

 

海岸にはほとんど人影がなかった。海の太陽の光のなかで、カップルがゆっくり楽しそうに散歩をしていた。ときおり大きな声を出しておもちゃを揺らすと、嬉しそうな子供が駆け抜ける。海岸のカフェからは静かな音楽が流れ、ウエイターが道路脇のテーブルを拭いていた。


シューマンの生涯について熱心に語り合いながら、私たちはゆっくりメインの港に近づいた。突然、おもしろい帽子をかぶった男性が私たちを呼び止めた。

 

―すみませんが……  彼は礼儀正しい様子で言った。
―「Blue Sea」というレストランがどこにあるかご存じありませんか? ここから遠くないと聞いたのですが、この海岸線はまるで永遠に続いて終わるところがなさそうなもので!  彼は申し訳なさそうに笑った。

 

男性はとてもエレガントな風貌で、黒髪が帽子からはみ出し、その顔にはミステリアスなほほえみがきらりと光っていた。私たちはお互いに顔を見合わせて考えた。


―レストランはサマーシアターの向こうにあったような気がします。海岸線をもう少し向こうまで行って……  私たちは振り返って遠くを指差した。
―ちょっと待って。  この新しい友人は目を細めてニコライを見た。
―あなたはピアニストですね?
―はい。  コーリャは笑った。

―ああ、そうだ。ここで演奏しますね? すぐに、すぐにあなただとわかりましたよ。私も音楽家で、ヴァイオリニストなんです。 彼は一瞬黙って、少し考えてから付け加えた。 ―あなたの名前はニコライですよね?
―はい。 コーリャは答えた。
―私も似た名前なんですよ。  そう言って彼は笑った。この世のものではないような微笑みが一瞬彼の顔に走った。 ―お会いできてとても嬉しいです。
―それはよかったです。どうぞコンサートにいらしてください、お会いできたら嬉しいです。 コーリャは喜んで言った。

 

そのおもしろい帽子をかぶった男性は嬉しそうな様子で、ポケットの中を探りはじめた。内ポケットに手を入れ、ようやくペンと少しシワになったチケットを取り出した。

 

―お願いできますか? ポケットからたった今取り出したものを手にして頼んだ。
―もちろんです! ニコライは数歩わきにより、磨かれたテーブルの上にチケットを置いて、大ぶりのサインをのこした。 ―どうぞ来てください!

 

ニコライがチケットを返すと、男性はチケットを注意深く内ポケットに入れた。そして彼は突然何かを思い出したようだった。

 

―どうもすみませんでした、お邪魔してしまいましたね。行かなくては。  彼は言った。 ―お会いできてとても嬉しかったです。  彼の声はすでに遠くから聞こえてくるようだった。

 

私たちはもう一度顔を見合わせた。空気の中のどこかに、かすかに、しかしはっきりと、シューマニアン・アラベスクの慎重な足取りが聞こえるようだった。

 

海辺の居心地の良いカフェの席について、地平線に消えてゆく黒海の波のうねりをながめながら海の幸を食べ、私たちは深い考えにひたっていた。どこか遠くでかもめが歌っている。ニコライに電話がきた。ホールの準備ができたという。リハーサルだ。

 

 

集中した空気がホールに広がっていた。コンサートホールの上部にはほのかなライトが灯り、待っていた。ニコライは、コンサートに乗り出すフリゲート艦を歩いてまわり、物思いにふけった様子で船体のはじからはじに手をかけ、蓋を開いて、音楽の国にフルセイルで飛び出していった。突然、陽気な作曲家がデッキにあらわれて、夢見心地のような温和な笑顔が水平線に透けていった。音楽が、この世界でのすべての小道という小道にあふれているようだった。感情と人間の感覚の迷路を通って、私たちは何か美しいものに向かって飛んでいるようだった。希望、光、夢に向かって……

 

―ほら、ここ。   コーリャはあるパートを弾いた。 ―ここ、海辺の太陽の光みたいだね……

 

 

夕暮れがきた。

 

道路を走るランタンの中に、それぞれの人生の誠実な仲間―音楽に会おうと急ぐ顔が見える。街の音は変わり、すてきなとばりが降りて疲れ切った1日をかすかに元気付け、魔法が起きそうな気配も整ってきた。この新鮮な夕方の空気には、捉えがたい何かがあるようだった。物語のような、謎めいた、ほとんど時を超越したような……

 

ああ、きらめくグランドピアノが向こうに現れた! 幻覚だろうか? そしてまた先ほどと同じく、波の音の間から、走る鍵盤の音が聞こえた。エメラルド色の輝きの中で、まるで物語の世界のように、魅惑的なピアノの姿があった。柔らかい音が聞こえ、まるで今夜、本物の魔法の物語が私たちを待っていると告げているようだった。

 


森の中の雨音のようなホールのノイズは、だんだんと消え去った。最後の会話のしずくが落ちると、明かりが落とされ、ステージが照らし出された。美しい音楽がはじまり、空間を満たす。ああ! 自然の海の鍵盤が躍っていた、あの聞き覚えのある音だ。ああ、あのオーストリアの作曲家の影がステージに現れ、弓が上がるかたわらを通り過ぎ、ソリストとともにピアノに向かっている。彼が指で空気をたたいて演奏を始めると、ホールにメロディが流れだした。マジックが起きているのだ! 神がかり的な音楽のうずが我々を魅了し、遠くに連れていく。ピアノの上で想いが踊り、旋回し、羽ばたいた。


 

人々が身じろぎもしないホールの中、ヴィルトゥオーゾなパッセージがきらめき、陽気で喜びに満ちた音がステージで光った。目の前に、フロックコートがちらつくと、私たちは華やいだ喜びに満たされた遠い空に飛んだ。

 

聴衆は意識を取り戻すと、割れんばかりの拍手を始めた。人々は次々立ち上がり、拍手を続ける。子供たちと一緒に来た人たちは、子供の頭をポンポンとなで、かがみこんで彼らの耳に何かを楽しそうに話しかけている。子供たちが飛び跳ねながら心から拍手をしている姿を見るのは、なんて喜ばしいことだろう!


そしてすぐに私たちは、シューマンのミステリアスな世界に向かう。

 

夢の世界の中
ノイズに隠された音たち
それはミステリアスで静かな音
耳だけがそれを享受できる

 

明かりが落とされ、我々はシューマンの音楽の無尽蔵の深みに飛び込んでいった。ミステリアスで静かな音はホールを通りぬけ、まるで空気のかたまりのようなもっとも小さな塵ですら、音楽によって魅了されているかのようだった。ニコライは私たちをそのユニークな音の世界に連れていった。すばらしい音楽が我々のかわりに呼吸し、客席は身じろぎもできない。空気がもっともピュアなエネルギーで満たされていた。思考がどんどん高く運ばれ、私たちはこの旅の最後のターンにゆっくり近づいていた。メロディは左にゆれ、そして右にゆれ、しばらくまっすぐ進むと、何か光のようなものがあらわれ、無限の遠くに去るその前、想像を絶する美しさで、音楽がゆっくりと繊細に揺らめいた。


嵐のような拍手が、目覚めたような聴衆の熱心な声と合わさった。人々は続きを求め、誰一人この世界から去りたがっていないようだった。ブラヴォーの声があちこちで燃え上がる。

 

 

もう一つの閃光がおき、ピアノは大きな力で荒れ狂うような音の中に流された。再びモーツァルトのフロックコートがステージの上に現れ、急速なメロディの奔流の中で踊った。ヤシ、木々や山々が頭に浮かび、かもめが空で旋回している。私たちはピアノの技巧に驚嘆しながら飛んでいた。私は振り返って、我々の車の車輪の後ろにいるはずのハンガリー人のヴィルトゥオーゾを見た。彼の顔にするどい笑みが浮かぶ。にっこり笑って私たちの思考を新しいターンに連れていった。音楽の馬車は離陸し、車輪の下の道はランダムにスピンし、小さくなっていった。山が、海が見えはじめ、廃墟、アーチ、ヤシの木を通り過ぎた。私たちは空の流れの中を飛び、カモメはごく近くから私たちに笑いかけていた。そして青い青い水平線の彼方に運ばれていった。


コンサートのあと、コーリャのもとに人々の列ができた。彼らは笑い、すばらしいアンコールについて尋ね合っていた。誰もがこのすてきな夜のかけらを持ち帰りたがっていた。ニコライはサインをしながら、モーツァルト、シューマン、そしてリストについて熱心に話をしていた。


ファンが次々とやって来る。ニコライは窓際に座り、嬉しそうに質問に答えながら、このすばらしい夜について、心の中ですべての人に感謝をしていた。彼は窓のわきに座っているというのに、音楽がどこか遠くでやわらかく歌われていて、優しく、そしてかすかに緑のヤシの葉を揺らしていた。

 


 

***
 

─こちらへどうぞ。窓際のお席です。  ウエイターが私たちを案内する。

 

広々としたテーブルに落ち着くと、私たちは地元の料理を注文した。今夜のコンサートについての話、そして芸術の話題が流れ出してくる。


隣のテーブルにいた若い男性が席から立ち上がり、私たちのもとにやってきて言った。

 

─おめでとう、ニコライ。すばらしいコンサートでした。また私たちのためにここに演奏しに来てください!  そして笑って、ニコライとあたたかい握手を交わした。

 

夕食を続けながら、私は隣のテーブルにいるヴァイオリニストに気が付いた。海岸沿いで会った、あの男性だ。彼はかすかに、しかしはっきりとうなずき、ワインの入ったグラスを挙げた。弟と私はお互い顔を見合わせた。私たちは同じ考えを持ったようだ。そして、そのテーブルにもう一度目をやると、そのヴァイオリニストはもうそこにいなかった。

 

魔法のような夜のなめらかで魅力的な音楽が、通りに流れ続けていた。

 

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March 3rd 2017 in Sochi, 
Program: 
Mozart Piano Concerto №21 K467 
Schumann Arabeske and Fantasie in C.