韓国民主化運動の巨星逝く | 朝鮮問題深掘りすると?

朝鮮問題深掘りすると?

初老の徳さんが考える朝鮮半島関係報道の歪み、評論家、報道人の勉強不足を叱咤し、ステレオタイプを斬る。

朝鮮のキム国防委員長の逝去の余韻がまだ新しいときですが、韓国でもひとりの巨星がなくなりました。民主統合党の常任顧問である金槿泰氏が12月30日に脳静脈血栓でなくなりました。


管理人がなぜこのことを書く気になったのかというと韓国が全斗煥軍事政権によって民主主義の墓場となりかけた時期、韓国の民主勢力が根こそぎに弾圧され、最早再起不能かと思われた時期に,果敢に壁を打ち破り再び闘争の炎を掲げ、民主化闘争を再起させた人物こそまさに金槿泰氏だからです。大げさに言えばまさに彼によって韓国の民主化闘争は息を吹き返したのです。彼は韓国で386世代と言われる世代の言わばゴッド・ファザーであり、1980年代後半から金大中政権登場までの間の韓国民主化運動は彼を抜きにして考えられません。


朝鮮問題深掘りすると?

1947年生まれなので亮年65歳です。かれは中学3年の時に朴正煕の陸士18期生を中心にした5・16軍事クーデターを経験し、1965年にソウル大学に入学。71年の朴正煕の不正選挙に反対して積極的に抗議デモなどに参加いたあげくに「ソウル大内乱陰謀事件」と関連して指名手配され逃亡生活を始めます。その後74年に緊急措置違反で再び指名手配され、逃亡生活7年目に朴正煕政権が倒れます。朴正煕政権が倒れた後、一時は「ソウルの春」と呼ばれた時期が訪れましたがその時期は短く、2度にわたる軍事クーデターを通じて権力を簒奪した全斗煥は、民主化運動勢力を根絶やしにするために武力を使っての徹底した弾圧を強め、そのために民主化運動は鎮圧され,まさに再起不能の瀕死状態に陥ります。


まさにそうしたときに金槿泰は「民主化運動青年連合」を結成し、「民主化の道」という機関誌を発行。「三民主義(民主、民衆、民族主義))の理念を提起し、民主化運動再起の小さな芽を育て、ほとんど死にかけていた民主化運動を再起させるのに成功します。しかしこうした活動のために85年国家保安法違反容疑で逮捕され南永洞の対共分室(反体制派を容共主義者に仕立て上げる拷問室)でイ・グナンという拷問技術者の拷問を半年以上も受け、その後遺症に長く苦しむことになります。


この拷問に関する陳述書が韓国の有名な歌手イ・ミジャのミュージック・テープの中に録音され、それをアメリカの人権団体が入手し、全世界に大きな反響を生みましたが(なぜか日本では知らされませんでしたが)、このときから「世界の良心囚」と言う名が付けられています。そして87年にはロバート・ケネディー国際人権賞を受けています。


彼は87年の6月抗争(全斗煥を退陣に追いやった民衆闘争)を監獄で迎え、88年になってやっと釈放されました。釈放されて目撃した都市は随分と変わっていたことでしょう。しかし「天地開闢」はありませんでした。そして彼は闘いを止めませんでした。1989年には「全国民主民衆運動連合」(全民連)の結成を導き,政策企画室長、執行委員長を務めましたが、再び捕らえられもしました。盧泰愚政権後の金泳三の妥協的政策と反北政策を目撃した彼は。95年に民主党に入党、金大中の政界復帰と共に政界に入り、新政治国民会議を金大中と共に結成し、副総裁にもなりました。


2002年の大統領選挙では盧武鉉の当選を応援すべく自ら候補を辞退し、いわゆる「盧武鉉の風」(盧風)を起こす突破口を開き,盧武鉉政権登場の礎にもなりました。しかし彼は拷問を受ける前のような突破力や決断力、果敢な突撃力は何時しか失っていました。


長きにわたった拷問は彼をより慎重に、優柔不断な人間に変えたようです。それに金泳三による守旧勢力への全面的屈服を意味する三党合党を目撃したことによって,現実の政界にとぐろを巻いている悪癖や政治力学というものが無視できなくなったことの結果でしょう。彼は在野運動出身のいわば「革命家」タイプの人間でしたが、その彼が見た政治家というものがまったく期待とは違う、魑魅魍魎の世界に留まる人間だと言うことに幻滅したのではないでしょうか。


そして闘いの場を政界に置き、政界をまず変えようとしたのではないでしょうか。その証拠に彼はつねにいわゆる非主流の立場に立ち、政界の浄化を目指してたたかってきました。それが彼が韓国の野党が常に主張する「中道実用路線」に反対し、それを突き破ろうとしてきたことにも現れています。不動産原価公開問題で盧武鉉大統領とぶつかり、「階級章を取って討論しようと」詰め寄ったり、営利病院に反対して青瓦台と衝突したり、韓米FTAの推進についても絶え間なく問題を提起してきたことにも現れています。


管理人は故金槿泰のフアンでした。とくにほとんど死にかけていた韓国民主化運動の命脈を保つための彼の闘いには魅了されたものです。当時彼が見せた決断力、突破力、理論的に深い考察に基づいた情勢判断などは、いずれをとっても今の日本の政治家らは足下にも及ばないでしょう。


ただ残念なのは彼が最高に実力を発揮していた時の韓国民衆・社会が、今のようなレベルに達していたならば、6.4宣言も10.4宣言も10年は早く実現していたであろうし、もし彼が、現在の韓国民衆の高い運動レベル、運動の裾野の広がり、政治意識水準の高いレベル、強い反米意識と民族統一意識を保持している現在に彼がもっと若く拷問を受ける前の状態で出会っていたならば、北南関係はすでに統一を目前にする状況になっていただろうと思われることです。


韓国の人々が政治のパラダイムの変換を要求していることが明らかな今こそ彼が必要なときです。彼は最後の言葉をこう言っています。「2012年を占領せよ!」それが彼の意思です。その意思は彼の後輩達によって叶えられるでしょう。その意味でも彼の死は残念だと言うほかありません。朝鮮からも二つの弔電が届いています。彼の功績を称えたものでした。