エジプト、24年前の韓国の轍を踏むのか? | 朝鮮問題深掘りすると?

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エジプトの民衆蜂起が転換期を迎えているようです。アメリカの干渉を受ける中でオマール・スレイマンが事実上大統領職を代行し、選挙による新政権樹立の道に入ろうとしています。まさにアメリカの望んだ道筋を歩み始めようとしています。


毎年、年間15億ドルもの援助を与えムバラク政権を背後で支えて来たアメリカの豹変は、アメリカという国の本性を見事に見せ付けてくれます。アメリカがなぜムバラク追放を主張するようになったのか、なぜエジプトでの政権交代を望んだのかを巡って、民主主義に忠実であるからだ、エジプトの崩壊が中近東でのアメリカの権益を揺るがす可能性があるからだといった、様々な議論を呼んでいます。が、その回答はアメリカと言う国の本質的特長、別のことばで言えば本性を見抜くことで得ることができるでしょう。


つまりアメリカの現在のエジプト問題に対するアプローチはエジプトに限られるものではなく、普遍的なものであるということがはっきりされたときに答えを得ることができるということです。この過程を経ない限りアメリカのエジプトに対するアプローチがリビアや、チュニジア、イエメン、アルジェリア、イランなどで起きている反政府デモに対するアプローチと何が共通しており、何が違っているのか、ひいてはイラクの民主化が目的だという大義名分を掲げて軍事侵略を行った論理と何が同じであり、何が違うのかを区分けすることもできるだろうと思います。


そこでアメリカという国家の本性ですが、それについて述べる際の方法論として、類似した歴史的経験を下に比較研究するというのも効果的な手だと思われます。そこでその類似した歴史的経験として全斗煥軍事独裁政権を打ち倒した韓国での1987年6月民衆抗争を上げ、それを収拾するためのアメリカのアプローチについて検討するのも悪くは無いでしょう。


1979年10月26日に、朴正熙が金載圭大統領警護室長によって暗殺された後、同年12月29日の粛軍クーデターで実権を掌握した全斗煥は、1980年の光州虐殺(全斗煥、鄭鎬容、盧泰愚、朴熙道、米国を光州虐殺を首謀した光州5賊と呼んでいる)事件(5.18クーデター)を経て、朴正熙が終身大統領になるために作った維新憲法に従って統一主体国民会議(大統領選挙人団選挙によって選出された大統領選挙人らによる翼賛政治組織)により大統領を選出(つまり翼賛機関による間接選挙で大統領選出)するという方法で大統領になりました。それは朴独裁政権を継承すると言うことを意味したも同じでした。


そのため韓国では学生を中心に、一般人を網羅したデモが頻発し、維新憲法の撤廃と大統領直選制、民主化実現を主張しました。そうしたなか1987年1月にイ・ハンヨル学生を拷問死させたことが明らかになり、これが起爆剤となって一斉に反政府デモもが拡大しました。


デモが前民衆的な蜂起へと拡大する気配を見せるや全斗煥は、4月13日に「今年度中の憲法改正論議の中止」と「現行憲法に基づく次期大統領の選出と政権移譲」を主旨とする所謂「4・13護憲措置」を発表し、現行憲法に規定された選挙人団選挙[1]による間接選挙で次期大統領を選出することを明らかにしました。大統領直接選挙と民主化要求を主張する民衆勢力に強硬姿勢で臨むことを明らかにしたのです。民主勢力は5月27日に野党も含む広範な反政府勢力を結集した「民主憲法争取国民運動本部」(以下、国民運動本部)を結成し、4・13護憲措置撤廃、大統領の直接選挙制改憲を最大要求に掲げ、街頭に出ることを訴えました。


6月10日、ソウルをはじめ全土で150万人を越える人々がデモを展開するなど、大統領直選制と独裁政権打倒、民主化を要求するデモが空前の盛り上がりを見せ、革命へと進むかのような雰囲気がかもし出される中で、(政権による)戒厳令の布告と軍出動の噂が飛び交いました。しかしその最中の20日、国民運動本部は声明を発表、①4・13護憲措置の撤廃、②6・10大会拘束者と良心囚(政治・思想犯)の釈放、③集会・デモ・言論の自由保障、④催涙弾使用の中止、などを求めた。そして、これらの要求が受け入れられない場合は、「国民平和大行進」を決行することも明らかにし26日、平和大行進を敢行した。官憲による実力阻止が行われたにもかかわらず、全国33都市と4郡で少なく見積もっても180万名以上が参加し、デモが行われました。


こうしてしてまさに革命前夜を彷彿させるような状況が生まれました。そうしたなか全斗煥の後継指名を受けた盧泰愚が、29日にいわゆる「民主化宣言」を発表したのです。それは①大統領直接選挙制改憲と88年の平和的政権移譲、②大統領選挙法改正による公正選挙の実施、③金大中の赦免・復権と時局関連事犯の釈放、④拘束適否審(適法か否かの審議)の拡大など基本的人権強化、⑤言論基本法の廃止、地方駐在記者制度の復活、プレスカード廃止など言論制度の改善、⑥地方自治及び教育自由化実施、⑦政党活動の保障、⑧社会浄化措置の実施、流言飛語の追放、地域感情解消などによる相互信頼の共同体形成の8項目で攻勢されていました。

盧泰愚の「民主化宣言」後、韓国での民主化闘争は一方ではまず、盧泰愚の「民主化宣言」を制度的に定着させることでいわゆる「手続きの民主主義」を確保すべきだという意見と、闘争を続け民衆の力による「三民政権(三民とは民族自主、民族統一、民衆解放のこと)、民衆の政権を勝ち取るべきだと言う主張に分かれましたが、既成の野党勢力や宗教勢力は「手続きの民主主義」を確保することにウエイトを置き、年末の大統領選挙で「民主主義の人士」を大統領として選ぶことこそ当面の過大だとして、闘争を収束する方向に運動を転換していきました。


そしてその結果、全斗煥の後継指名を受けた盧泰愚が大統領になったのですから、まさに民衆からすれば裏切られたようなものでした。旧秩序の全ての代表を破壊しない革命は成功しないという視点から見れば、6月民衆抗争はまさに中途で挫折した革命と言えるでしょう。実際その後、金泳三の時代まで民主化は実現しなかったのであり、金大中、ノ・ムヒョンの時代まで民主化は完全に達成できないままMB政権に移り、6月民衆抗争の成果が奪い取られ始めているのです。


こうして韓国の6月民衆蜂起は革命にまでは発展しなかったわけですが、その背後にアメリカの蠢動がありました。


なによりもアメリカは6月民衆抗争が革命にまで発展しないように、いかに管理するかと言うことに知恵を絞りました。前年にフィリピンでマルコス独裁体制が崩壊したのを目撃しているのでいっそう警戒しました。それまでの韓国の政権の最大の弱点は正当性がまったくないということでした。朴正熙政権も全斗煥政権もクーデターで登場した政権でした。そしてそのクーデターはどちらもアメリカが深く関与したものでした。そしてそれは学生運動などを通して韓国民全体が持っている共通した認識でした。なので6月民衆抗争はアメリカに向けられた反米運動でもありました。


アメリカは韓国でも反独裁闘争によって政情不安が続くのを良しとせず、また運動の矛先がアメリカに向かうのを阻止するためにその対韓政策を調整しました。6月民衆抗争が革命にまで発展することで、アメリカのアジア政策全体が崩壊する危険に瀕するのをどうあっても阻止しなけれなりませんでした。


アメリカは「88年平和的政権交代」という全斗煥の公約をたてに全斗煥をして改憲を実施させ、形式的な民間政府を樹立することで、政権の正当性の問題を解消し、韓国民衆の反米自主、反独裁民主化、民族統一運動を沈静化させようとしました。そしてこうしたアメリカの政策は、CIA東アジア担当責任者を始め、当時アメリカ国務省東アジア・太平洋地域担当次官補代理のウィリアム・クラークなどが矢継ぎ早に韓国に派遣され、彼らの手によって実行に移されていきました。


クラークは訪韓(1987年3月6日)し、「(訪韓の目的について)韓国政党間で妥協と協商の雰囲気をかもし出し、進めることにある」と自ら語ったような活動をしました。つまり問題を「権力の移行」に集中させ、野党を説得することで民衆の反米自主、反独裁民主化闘争の拡大を阻止しようとしたのです。アメリカにとって何よりも大事なことは韓国の民主化実現や政権の崩壊ではなく、政情の安定であり秩序ある政権の移行による自らの韓国政治に対する支配秩序の維持でした。そのために必要ならば「権力の移行」も考えるべきだ言うことなのです。


現在のエジプトに対するアプローチとまったく同じです。オマール・スレイマンをムバラクの後継者としたのもそうですし、退役米外交官フランク・ G・ウィズナーII世(イランで、モハンマド・モサデク政権を打倒し、モハンマド・レザー・シャー・パーレビーを、"皇帝"兼、傀儡国家元首として就任させるお膳立てをした、CIAが支援していたクーデターにおいて、黒幕でもあったと言われている)が、1月31日、抗議運動の真っ最中にアメリカ政府の特使としてエジプトに現れたのはその恰好の例だと言えるでしょう。彼はまさに24年前に韓国に飛んだクラークと同じ役目を果たしたのです。


アメリカの関心はエジプト国民の要求している民主化や自主的政治の実現ではなく、親米政治の安定化であり、エジプトの戦略的価値であり、利権です。そしてそれが崩れた場合のドミノ現象の阻止にあるのです。アメリカの対応はゆえに欺瞞と偽善に満ちたものです。アラブ諸国で連鎖的に起きている反政府デモに対して、アメリカが見せているダブルスタンダードは、したがって偶然ではなく、政策的要求に従った必然的な選択なのです。


今のまま行けばエジプトの今後は、偽善と欺瞞に満ちた形だけの改革で全てが解消され、国民の要求はかき消されていくことになるかも知れません。もっともエジプト人が大して変わっていないことに気がつけば、もしかすれば彼等は再度、一層断固たるやり方で、今度は集中した指導者の下で、爆発するだろうという希望は捨てていませんが。