膿を絞る出す必要が、週刊新潮事件は氷山の一角 | 朝鮮問題深掘りすると?

朝鮮問題深掘りすると?

初老の徳さんが考える朝鮮半島関係報道の歪み、評論家、報道人の勉強不足を叱咤し、ステレオタイプを斬る。

マスメディアを揺るがす一大事件が起きている。

1987年5月の朝日新聞阪神支局襲撃事件など警察庁指定116号事件を巡り、「実行犯」を名乗る島村征憲氏(65)の手記を10ページにわたり連載した週刊新潮が、4月23日号(早い地域で16日発売)で「手記が誤報だったことを率直に認め、お詫 ( わ ) びする」とした早川清編集長名の謝罪記事を掲載することがわかった。

この問題について早川清編集長が15日午後、産経新聞のインタビューに応じた。

その一問一答によれば、早川編集長はその証言に対して新潮なりの裏付け取材をしたうえで、これは掲載するに値すると判断し、手記という形で掲載した」「一番不足していたのは裏付け取材であったと思っている。今回の方法としては、まず最初に、島村氏に取材して彼の話の全貌を把握し、それからその話が真実であるのかどうか、そこに登場する人物がいるのか、彼の言っているようなことがあったのか、といったことを検証する。最初の段階では、確証たるもの、これがあれば島村氏の話が真実であるとすぐに立証できるので探すようにしたが、見つからなかった」「証明はできないが、否定することもできなかった。」

また「ある告発があったときに、匿名であること多いが、告発内容を精査すると同時に、なぜ告発したのかという動機、理由についても取材する。告発者がどういう人間なのかも合わせて取材する。今回においては、どういう人間なのかというところが、非常におろそかになっていた。」「彼の話が誤りであることを証明するのは非常に難しい。仮に今まで公表されていることと違うことを言っても、もしかしたら秘密の暴露かもしれない。」

また「囲い込み」のような手法をとって、取材対象者の要求するがままに飲ませたり食わせたり宿をとってやったりと、ともすれば取材する側がへつらうような関係ではなかったかとの質問に対してはそういった面があったことを認めた。

また産経新聞によれば、朝日新聞の報道や関係者の話などを総合すると、島村氏は詐欺罪で北海道の網走刑務所に収監されていた平成17年4月ごろ、朝日に手紙を投函(とうかん)。手紙のやりとりの過程で同社阪神支局の襲撃犯と告白し、18年5月に朝日記者2人と特別面会が実現したが、結局、朝日は真犯人ではないと判断した。一方で島村氏は他の雑誌にも犯行関与を告白する手紙を出したが、具体的な反応があったのは週刊新潮だけだったと書いている。つまり、島村氏の「告白」を真に受けたのは週刊新潮だけっだったわけだ。
この件に関して週刊誌関係者は「『積極的な告発者』は、交渉の末に得た取材源と違って、金銭や売名、中傷目的だったりすることがある。そこを見極め、きちんと裏付け取材をしなければ単なる代弁者になってしまう」と話す。別の報道関係者は「重要なのは証言したことではなく、内容の検証作業だ。証言がぶれている以上、『取材時に本人はそう言っていた』では無責任すぎる」と指摘する。
週刊文春によると、新潮は文春の質問文への回答で、島村氏と交わした「覚書」の存在を明らかにした。内容は「手記はすべて事実であり、今後、私自身が『手記の内容は虚偽だった』と書いたものが発表されても、それは脅迫により書かされたものである」との趣旨という。こうした文書を報道側が取材対象者と取り交わすことは極めて異例だ。

 新潮は産経新聞の取材に覚書の存在を認めた上で、「『脅迫行為により虚偽の証言を強要される』ことを恐れていた島村氏が自発的に文書を書き、編集部が預かっていたものにすぎません」と回答している。
立教大の服部孝章教授は今回の事件は「雑誌の歴史に禍根を残す騒動だ」と厳しい見方を示す。ジャーナリストの大谷昭宏氏は「時効まで捜査してきた警察当局に当たれば、証言の信憑(しんぴょう)性はすぐに確認できたはず。新潮は取材源の秘匿を隠れみのにして、裏付け作業を怠ったのではないか」と指摘する。

以上が産経新聞の記事だが、様々な意見を紹介しつつも、週刊新潮編集部には何が一番欠けていたか、長期にわたって嘘の証言を信じ込み、誤報を流すことになった最大の原因は何であったのかについては指摘されないままだ。

週刊新潮編集長は「証明はできないが、否定することもできなかった」と語っているが、では否定できなければ証明できないことも平気で書いてもよいのかと言う問題が残る。週刊新潮の最大の問題はまさにここにある。大谷氏の指摘を待つまでもなく、警察当局に当たればすぐに証言の信憑性は確認できたのであるが、なぜそうしなったのか。

、服部孝章・立教大教授(メディア法)は「新潮の記事は短絡的に答えを求めようとする今のテレビと同様の傾向がある」という。文芸評論家の富岡幸一郎氏も「今のジャーナリズムが事実をきちんと報道するというより、スキャンダラスで動いていることの象徴のようだ」と述べ、「ジャーナリズムがフィクションのように読まれ、文学の側が追いかけて何を構築するかが問い返されている」と“病根”の深さを口にする。

検証記事の見出しは、「『週刊新潮』はこうして『ニセ実行犯』に騙(だま)された」と被害者面しているが、島村が複数のメディアの取材に「担当者のストーリーに乗せられて話した部分も多い」「阪神支局襲撃事件のときは北海道・登別の家にいた。当時の写真などアリバイもある」「週刊新潮の取材を受け、最初の2月5日号を見ると自分が実行犯になっていて驚いた。おおまかな犯行状況は配下の人間から聞いていたが、自分がやってもいないことについて細かく分かるはずがない」「記事について担当者に怒ったが、結局、情に訴えられて丸め込まれた」と発言しているのとは多いに食い違っている。また「腹をくくって担当者が描いたストーリーに乗ってしまった。連載の2回目からは「どうせうそが書いてあから」と思ってまともに読まなかった」とも発言しており、週刊新潮の言い分とは完全に食い違っている。

結局、週刊新潮はジャーナリズムから逸脱し、スキャンダラスで動いたのである。だから証言を検証し、事実を究明するのではなく、「証明はできないが、否定することもできない」ことを盾にして、確証も無いまま報道したのである。

だが、この手の報道はなにも週刊新潮だけが行っているわけではない。また今回始めて起きたことでもない。北朝鮮の金正日総書記が実はすでに死亡しており、いまは4人の影武者が代理をしていると言った早稲田大学の重村「教授」の文書を週刊現代が数度にわたって載せ、テレビ各局がこれに便乗して報道すると言う、まさに「証明はできないが、否定も出来ない」ような嘘を平気で紙面に載せ、放映したのではなかったか。北朝鮮で300万人が餓死したと言う10数年前のとてつもない嘘を、国連による人口統計が出された今になっても、未だに信じている情けない報道人もいるのだ。

つい最近、日本テレビの報道番組「真実報道バンキシャ!」が虚偽の証言に基づいて番組を制作したことが俎上に上がったが、事実検証よりも、スキャンダラスを追い求める日本マスコミが、実に根底から腐っている現状をまざまざと見せつけたと言えるだろう。

最も私などは、嘘の報道を知るより、まったく知らないほうが返って健全でいられるので、週刊誌の記事などはなから信用なんかしてはいないが。実際、安心して信用できる、それこそジャーナリズムに徹した新聞も週刊誌も、TV局も、報道人もまったく見当たらないと言うのが、いまの日本のマスメディアの現状だと言えるのでは?


―追記―


週刊新潮は東京地裁から、「取材結果はいずれも伝聞で、伝聞元の取材は一切行われていない」としてノースアジア大学(秋田市)に計600万円の支払いを命じられており、また掲載された大相撲八百長疑惑や相続問題に対し、貴乃花親方と景子夫人が提訴、09年2月4日に計375万円の賠償を命じられた。しかも、名誉棄損を防ぐ対策が不十分だったとして、同社の佐藤隆信代表取締役社長にも賠償責任を認定する異例の判決となっている。さらに09年1月にも、楽天への名誉棄損で計990万円(26日判決)、野中広務氏への名誉棄損で計110万円(30日判決)の賠償命令が下されている(いずれも東京地裁)。新潮へも各裁判長から「根拠が不十分で、記事掲載ははなはだ軽率だった」(1月26日・原優裁判長)「十分な裏づけ取材がない」(2月4日・松本光一郎裁判長)と指摘されるなど、記事の信憑性が疑われる判決が相次いでいる。島村征憲氏(65)の手記をめぐる誤報は、週刊新潮の体質となっているのかも。

他方週刊現代は、同誌は05年から06年にかけ、広島県警の男性警部補が、00年に神戸のテレホンクラブで起きた放火殺人事件に関与した人物と癒着している、などとする記事を掲載、警部補は名誉を傷つけられたとして提訴し、結局週刊現代は広島県警に謝罪文を送り、和解が成立した。また、東京地裁は3月5日、北の湖前理事長の八百長疑惑記事をめぐる名誉棄損訴訟で、計1540万円の賠償を週刊現代側に下し、3月26日には朝青龍の全勝優勝をめぐる八百長記事に対する名誉棄損訴訟でも、現代側に計4290万円の賠償を命じている。それぞれの判決では各裁判長から「ほとんど裏付け取材をしていない」(3月5日・浜秀樹裁判長)「取材は極めてずさんだ」(3月26日・中村也寸志裁判長)とされた。現代はほかにも08年12月にも東京地裁から、堀江貴文・元ライブドア社長への名誉棄損で400万円の賠償(24日判決)、キヤノンへの名誉棄損で200万円の賠償(25日判決)と立て続けだ。

まさにジャーナリズムや言論の自由を云々する資格など無い