いきなりだが、僕はミュージシャンなので音楽の話をしたい。

The Next Step/Kurt Rosenwinkel
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カート・ローゼンウインケルというギタリストを知ってもう10年になるか、初めて聴いたときはあまりに感性が独自でまったくついてゆけなかったが、ここ数年は僕が一番好きなミュージシャンの一人である。


このレコードは、まだ彼のスタイルが理解できなかったというか、自分の感受性がまったく彼に追いついていなかった頃に買ったものなので、しばらくラックに眠っていたものだ。


しばらくぶりに聴いてみると、これがすごかった。


すべてオリジナル曲だが、そのサウンドはどれも独自のものだ。

彼のギターサウンドは空中を浮遊しているようだ。

音域がものすごいスピードで上下する。

音程のレンジのとらえ方が独自で、なにしろ広い。この辺はジョン・スオフィールドの影響か…。

ボーナス・トラックの「Games in the Rain」は感動のあまり、ため息しかつけなかった。


いずれにしても独自の世界観を表現しており、ギタリストというよりはサウンド・クリエーターとしてすごい才能をもっていると思う。

マイルス・デイヴィスの「スケッチ・オブ・スペイン」を聴いた時のような衝撃、新しい世界観を提示された時の驚き。


ミュージシャンにとって本当の成功とはやはりそれぞれの魂の独自性を表現できたことにあるのだと思う。


もうしつこいくらいだが、

リアリティ・トランサーフィン 2―願望実現の法則 (2)/ヴァジム・ゼランド
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この本の記述の中に、

「成功の秘訣は、あなたが振り子の影響から解放されて、自分の道を進むことにある。」


というのがある。


確かに日本の音楽業界はあまりに商業主義で、自分自身もそれを嘆いていたことがあるが、結局は「振り子」に合わせようとして自分の感性に水をやってなかっただけだ。


世の中はうまくできている。

俺も少しは本気になってやるとしよう。いまからでも遅くない(と思う(*^.^*))。

私が住んでいる鎌倉市はお寺やお墓の数が多い。

最初引っ越してきた時は、夜にどこを通っても墓場ばかりなので閉口したものだ。


私はまったく霊感のない人間なので、いたくもかゆくもないのだが、それでも夜に古戦場のあたりを通るとゾワゾワしてくる。

そういう時って、やっぱり変な霊がくっついているのかな…。

いずれにしても、自分では見えないからよくわからん。


私の知り合いのお坊さん(僕は先生と呼んでいる)は、小さい頃から霊がみえた人だ。そのためにいじめもうけたし、かなりつらい思いをして苦しんだようだ。

江原さんにしてもそうだけど、やはりああいった能力を持っている人は、それ相応の苦しみをもつものらしい。

みんな、そういう能力を消したくていろいろ修行したりしているんだ。


そういうことを考えると、自分の背後霊、守護霊がどうだとか、はたまた前世がどうだとか喜んでいるのも馬鹿馬鹿しいというか、めでたいものだ。


しかし、世の中にはやはり霊がつきやすい人というのがいて、そういう人に限ってやはり霊感が強い人が多いようだ。へんな霊がつくと体に変調をきたすらしく、つくづく自分に霊感がないことをありがたく思う。


やっぱり、見たくないものは見えないのが一番いい。

霊のせいで自分を見失ってしまうことは怖いことだが、そういう霊が見えない人のために、仏教の教えがあるんだと思う。

要は心おだやかに、幸福に、正しく生きるということかな(これが簡単じゃないんだけどね)…。


この前用事があって、先生のお寺にいった時、先生がこぼしていた。


「自分はよく霊の相談をうけるけど、大体は本人の心の問題だ。もちろん中には本当に地縛霊がとりついているというような深刻なケースもあるけど、大体はちゃんと先祖を供養すれば解決する話だ。残念なのはそんな基本的なことをおろそかにして、霊の仕業でもなんでもないのに、自分の心を正せばよいだけなのに、やれ除霊だ、浄霊だとさわいでいる人がいることだ。」


先生:「あなたの右側に先祖のおじいさんがいるよ」


相談者:「っ先生! 除霊してください!!」


先生:「…」


あのねー、どんな人だって前世があるし、どんな人だって、なんらかの霊が周りにいるもんなんですよ。


だいたい、先祖の霊を除霊してどうすんねん。


ばちが当たるぞ、本当に!

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もう、しつこいくらいこの本を採り上げているが、テーマ上必要なのでかまわず進む。


キーワード「外的意図」をいかに利用するかが、この本のメインテーマであるが、外的意図とは、

「所有する決意」のことであり、自分がそれに値すると思い、選択権が自分にあることを「知っている」ことだ。


あえて、よりシンプルな自分の言葉に置き換えると、

「世界がすでにそう成っているかのように生きる(振舞う、行動する、思う)こと」だと僕は思う。


以前にブログに書いたが、観音経の内容自体は非常にシンプルで、

「観音様の名前を唱えれば、すべて救われる」というものだ。

確かに、この経の意味を考えることに、僕は意味はないと思う。


そして、出家している人には悪いが、仏の教えをこのお経の中に見出し、努力することにも私としてはあまり意味を感じない。

「リアリティ・トランサーフィン」の観点からすれば、それは「内的意図」である。


この意味のない、他力本願的な発想、いわゆる奇跡が当たり前のように書かれている世界観を受け入れることを前提としている行為こそが、経を唱えるという行為である。

そこには願いもなければ、努力もない、信じようとする決意すらない。

なぜならすでに事は成っているから。


自分の願いそっちのけで、まずはお経、というのはあながち嘘ではない。


願っているうちは、その願いは叶わない。

その願いを現実のものとして受け入れる「心構え」が必要なのだ。


僕が最近仏教に惹かれているのは、戒律とか教えからではなく、そのダイナミックな世界観そのものである。

こんなことを書くと、大半の人が「宗教だ」とか言い出すんだろうけど、


そんなの知ったことじゃない!