孝謙天皇(こうけん てんのう)は、日本の第46代天皇であり、さらに重祚して第48代天皇(称徳天皇)としても知られる女性天皇です。彼女は聖武天皇の娘で、天平時代の政治や仏教に深く関与し、国家の統治において強い意志を持った天皇として歴史に名を残しています。

出身と家族背景

孝謙天皇の本名は「阿倍内親王(あべ ないしんのう)」です。父は聖武天皇、母は光明皇后(藤原不比等の娘)であり、皇族と有力な藤原氏の血統を受け継いでいました。彼女は、藤原氏の強い後ろ盾を受け、天皇として即位することになりました。

第46代天皇としての即位(749年~758年)

孝謙天皇は749年、父である聖武天皇が譲位したことで即位しました。彼女が即位した背景には、聖武天皇が出家し仏門に入ったことが関係しており、孝謙天皇も仏教信仰を強く持っていました。即位後も、父である聖武上皇や母の光明皇太后と共に政治を行い、特に仏教を国家の安定の手段として重視しました。

政治・政策

孝謙天皇の治世では、仏教政策が引き続き重視され、父である聖武天皇の遺志を継いだ国策が進められました。

  1. 大仏開眼供養: 752年、聖武天皇が進めていた東大寺大仏の完成を祝う「大仏開眼供養」が行われました。この儀式は、国家的な仏教行事として、孝謙天皇の治世の象徴的な出来事でした。大仏開眼は、日本全国から多くの人々が集まり、壮大な規模で実施されました。

  2. 藤原仲麻呂の台頭: 孝謙天皇の治世中、藤原仲麻呂(恵美押勝)が権力を握り、実質的に国政を掌握するようになりました。藤原仲麻呂は、藤原氏の一族であり、孝謙天皇の信任を得て、政治的な実権を持つようになりました。彼は、朝廷内での力を強化し、国家運営に大きな影響を与えました。

退位と称徳天皇としての重祚(764年~770年)

758年、孝謙天皇は母の光明皇太后の崩御を受けて、自らの意志で皇位を譲り、甥にあたる淳仁天皇が即位しました。しかし、その後も孝謙上皇として強い影響力を持ち続け、特に僧・道鏡との親交を深めていきました。

764年、藤原仲麻呂と淳仁天皇が対立した末に、孝謙上皇は仲麻呂を討伐し、再び皇位に就きました。この時、彼女は称徳天皇として重祚(もう一度即位)しました。称徳天皇は、道鏡を重用し、仏教政策をさらに推進しました。

称徳天皇の治世(764年~770年)

称徳天皇としての治世では、道鏡を政治の中枢に置く政策が取られました。

  1. 道鏡の重用: 称徳天皇は僧・道鏡を非常に信頼し、彼を法王に任命するなど異例の高位に取り立てました。道鏡は、称徳天皇の寵愛を受けて政治の中枢に入り込み、彼女の政権を支える重要人物となりました。道鏡を天皇にする計画もあったとされますが、これは朝廷内外で大きな反発を招き、実現しませんでした。

  2. 仏教のさらなる振興: 称徳天皇は、仏教を国家安定の基礎と考え、仏教の教えに基づく政策を推進しました。寺院の建立や仏教行事の奨励が続けられ、仏教は国家の重要な柱となりました。

晩年と崩御

称徳天皇は770年に崩御し、道鏡は政界から退きました。称徳天皇の死後、道鏡の権力は失墜し、次の天皇として光仁天皇が即位しました。

孝謙天皇・称徳天皇の意義

孝謙天皇(称徳天皇)は、日本の歴史において2度即位した数少ない女性天皇の一人であり、特に仏教信仰に深く関与した天皇として知られています。彼女の治世は、仏教を国家統治に結びつけた重要な時期であり、東大寺大仏や国分寺の建設など、日本の仏教文化の発展に大きく寄与しました。また、道鏡の重用によって政争が激化し、後の天皇制における政治の在り方にも影響を与えました。彼女の治世は、宗教と政治の関わりについても多くの議論を生む結果となり、歴史的にも特異な時代でした。

 

 

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