裁くということ
「殺せ!裁判なんかいらん!」
そう言えたらどんなに楽だろう。
いわゆる“耳かき店員殺人事件”の公判内容を以下のサイトで見た。
http://sankei.jp.msn.com/etc/101020/etc1010201210000-n1.htm
恥ずかしながら世を騒がす事件の公判内容をじっくりと読んだのは初めてなのだが、詳細に綴られており想像以上に臨場感がある。
裁判員裁判制度が開始されてから検察、弁護側双方とも様々な見せ方の工夫をしており、本公判でも随所にそれが見られる。元は素人である裁判員に分かりやすく説明する為である。具体的には、“法廷内のディスプレイに事件現場の様子を示して視覚的に説明したり”、“プレゼンテーションソフトを用いて要点を分かりやすくしたり”というようなことである。
http://www.courts.go.jp/nagoya-h/about/koho/pdf/backnumber_9/9_2.pdf
確かに同公判の内容を読んでいても「広告会社同士のコンペのようだな」と感じる部分があった。また本件はそういった工夫に被害者参加制度の影響が加わる。2008年12月に始まった同制度は被害者自身やその遺族が刑事裁判に参加し陳述することが可能になった制度である。本件では複数の遺族が極刑を訴えている。
何が言いたいかと言うと、こういった視覚化と心情的な訴えが裁判員の量刑判断に影響を及ぼさないかということである。以下の引用記事によると“被害者参加+裁判員裁判の公判”において特に量刑の増加は見られないそうだが、
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20100105-OYT1T00008.htm
一方でそれとは逆の見解を示している調査もある。
http://www.jiji.com/jc/v?p=ve_soc_trialstaff20100520j-04-w400
二つの制度はともに始まったばかりであり今はまだ是非を問う段階ではないが、裁判は私的闘争の場ではないことは念頭に置いておかねばならない。また刑罰は国家が犯罪者に与えるものであり、犯罪の予防、再発の抑止効果を考慮して決定されるべきものである。
では被害者とその遺族への配慮はどうするのか。これについて別建てで経済的な補償制度を設けるべきである。誰しもが犯罪被害者になる可能性があり、雇用保険と同じ考え方である。これには既に犯罪被害者給付金がある。無論お金だけの問題ではない。心のケアの問題であって、遺族の傷が癒えることは無いと思うが現状の制度で不足があるならばそれを増やす方向で考えてゆくべきであろう。
と、ここまで書いてつらくなった。冒頭の言葉、それが私の一個人としての本音である。しかし裁判とは公的なものであり、私的に物を言うことは許されない。検察は既に死刑を求刑した。今回選出された裁判員の方々の審議は続いている。今この瞬間も心が休まることはないだろう。つとめて公の立場から意見を述べること、それが彼らに対する礼儀だと思う。
最後に一個人として亡くなったお二人のご冥福を改めてお祈りするとともに、ご遺族のみなさんの心にいつの日か安らぎが訪れることを願いたい。