暴力はどこからきたか | Man is what he reads.

暴力はどこからきたか

暴力はどこからきたか―人間性の起源を探る (NHKブックス)/山極 寿一
¥1,019
Amazon.co.jp

ゴリラ研究において世界的権威の一人である京都大学山際寿一教授の著書である。

数々の戦争を経て、ついにテロという卑劣極まりない暴力が定着してしまった人類。
本書は、他の類人猿の生態を触媒に、時に戦争にまで発展する我々人間の暴力性の根源を考察している。


話は、類人猿たちを突き動かす欲求からはじまる。


彼らは、普通群れを形成し、食と性を追求する。
種を残す為の根源的欲求だ。
もし、これらの欲求を無秩序に追求すれば、群れの内外で殺し合いが頻発し、結果として種が滅びることは想像に難くない。
よって、彼らはそれを回避する為の仕組みを持っている。

食と性、それぞれについて内容を要約する。


食の確保については、群れ間の活動範囲が重複しないよう、縄張り制度を採っている。

また、群れの中においては、優先順位が存在する。例えばニホンザルの群れでは、家系に基づく優先順位が存在し、それに従って食物を手にしてゆく。

ゴリラは、強い雄がリーダーとなるが、ニホンザルが先のヒエラルキーに厳格に従って、地位の高い者から食を手にするのに対し、ゴリラは、群れ内で食物を分配しあうこともあるという。

強い者が弱い者に譲ることがあるというのだ。


一方、性の確保においては、主に四つの方法によって葛藤の防止を試みている。

一、テリトリーを持って離れあう、二、オスが単独でメスを囲い合う、三、優劣順位に応じて異性への接近権を認める、四、乱交を許す、である。

これらは、つまりオスの「種を残したい」という本能を満たす、もしくは刺激しないようにする仕組みと言ってよいだろう。

無論、すべての葛藤が防げるわけではない。

殺し合いの報告もある。
著者によると、複数のチンパンジーのオスが協力し、単独で複数のメスを連れて群れを形成しているオスを殺し、そのメスたちとテリトリーを奪った事例があるという。

この事例には、差し迫った食や性の欲求は無かったそうで、まさしく暴力そのものである。
しかし、限局的だ。
「範囲」、という点において、我々人間が起こす戦争とは比較にならない。

何故、人間はそういった本能や一時の気の迷いでは説明がつかない大量殺戮を伴う大規模な殺し合いを行ってしまうのだろうか。


著者は、その理由を農耕と言語、そして死者にまつわるアイデンティティの発明に求めている。
農耕により、食が安定し、一つの土地に留まることが可能になる。

農耕は地道な作業である。

それに参加した者以外には、誰も分配したがらないし、また立地によって生産性が異なる。

生産性の高い土地に対する強い執着の発生である。

この執着は、今餓えてはいないが、有事に備えたいという願望を生んだと想像できる。

だが人間の寿命は有限であり、仮に良い土地を得たとしても、永続的に土地を所有できるわけではない。

そこで死者を利用することを発明した。

「先祖代々の土地」という大義である。

そして、その大義の伝播において、言語が重要な役割を果たしたことは容易に想像できる。
伝承の始まりである。
この伝承が世代を越えて引き継がれることで、共同体に強固なアイデンティティが生まれ、そしてそれが、他の共同体へ大きな敵意を抱く大元の理由であると著者は論じている。
土地への執着が死者の利用を発明し、言語が抽象的概念の伝承を促進し、国家や民族という大きな、しかし虚構の共同体を生み出したというわけだ。


このアイデンティティの確保をめぐる闘争が我々の宿命なら、未来永劫、殺し合いを続けるのであろうか。
私は、その宿命を変えうる三つの鍵が今ここにあると考えている。
それは、地球が有限であることの実感、世界大戦、テロ戦争の経験、そしてインターネットなどの発展による情報の世界規模での瞬間的同期である。
戦争に勝ち、アイデンティティを確保しても、そこには何も無いかもしれない。

また、地球の寿命を延ばすには、単独国家、民族の技術では不可能である。

そして何より、その行動一つ一つが常に誰かにみられている。

この誰かは、過去の痛ましい歴史を知る者たちだ。


これらは、大きな抑止力になると私は考える。

今、まさに我々の知性が問われる時代だ。