教養が問われる時 | Man is what he reads.

教養が問われる時

「イルカを獲って何が悪いのか?」
フォトジャーナリズム誌「DAYS JAPAN8月号」の特集記事である。
映画「ザ・コーヴ」の影響か、最近この問題に関する情報を目にすることが多い。
先日も池上彰氏のニュース解説バラエティ番組にて、そもそものところから解説されていた。

我々日本人がこの問題について語るとき、感情的にならずにいることは難しい。
「食文化に口を出されたくない」「絶滅の危機にある訳ではないのだから」とどうしても言いたい。何しろ、クジラの肉は美味しいし、イルカ漁で生計を立てている人もいる。

しかし、反対論者からみれば、到底理解できないことであるのは、犬を食べる習慣について我々の多くが抱く感情を想像すればよくわかる。

思うに、これは我々日本人の教養が問われている問題なのだろう。
ここでいう教養とは、博識と同義のいわゆる一般教養のことではない。
明治大学商学部教授 清水真木氏の「これが教養だ」(新潮新書)によると、教養とは、「公的なものと私的なもののあいだで巧みに折り合いをつける能力」(P19)と定義されている。
ネットの百科事典によると「人間の精神を豊かにし、高等円満な人格を養い育てていく努力、およびその成果をさす。」と定義されており、このような豊かな精神を持った人間がとるであろう行動を想像すると、なるほど清水氏の定義には説得力がある。

この定義に従って考えをめぐらすならば、今はこの問題について、「伝統的食文化と少数職人集団の雇用を守る」姿勢と「貴重な生態と賢さを有する動物を保護する」姿勢のいずれが公になるかの議論がなされている段階なのであろう。同じ倫理上の文脈に沿って議論が行われているのではないから、どちらにも善悪いずれのレッテルを貼ることは不可能だ。
ただ、広く世界の国々を見渡せば、どちらの立場により共感を覚える人間が沢山いるかは明白であるように思う。どのくらい先なのかは分からないが、我々日本人にとっては苦い合意がなされる可能性はある。我々は国際社会に生きており、その合意を無視することはできない。一度事が決したならば、紳士的に従うのみである。
だからと言って卑屈になる必要も、敗北感を味わう必要もない。それは我々の教養を証明するものであるからだ。
我々は、シーシェパードのような野蛮人では無い。