イサベリナ杉本ゆりの足跡 

 

1865年(元治2年)3月17日− 

それは、幕府による厳しい迫害を逃れるため、

表向きには信仰を隠して地下組織を結成し、

潜伏していたキリシタンたちが

250年の年月を経て発見された

「信徒発見」とも「キリシタンの復活」とも言われる記念日です。

 

 

そして、その歴史的出来事は1人の物静かな女性、

イサベリナ杉本ゆりの告白によってなされたのでした。

 

16世紀から続くキリシタン迫害により

殉教者の数は増し、指導する宣教師もいない中で、

多くの信者たちは表面では仏教徒をよそおい、

水面下で信仰を守るようになりました。

 

彼らは子孫たちに信仰を継承するために

地下組織を結成し、祈りや教義を伝承していました。

 

長崎に隣接する浦上村にも

迫害下で7世代信仰を伝承するキリシタン農民たちがいました。

 

ゆりの家もそのひとつでした。

 

相次ぐ迫害の中で彼らを支えたのは、

17世紀の後半に殉教したバスチャンという人物の

預言だったのではないでしょうか。

 

彼は少年の頃、

深堀菩提寺(カトリックの天主堂)の門番小僧だったとか、

教会で働いていたなどと伝えられています。

 

このバスチャンは殉教する際に、

「七世代後にコンヘソーロ(贖罪司祭)がやってきて、

毎週のように告白することができるようになる。

どこででも自由にキリシタンの教えを

広めることができるようになる・・・」といった内容の預言をしました。

 

 

「七世代待てば自由に礼拝できるようになる。」

七世代後の子孫たちに希望を託して、

祈りを、信仰を伝えたのでしょう。

 

 

そして、その預言から数えて七世代になったころ、

日本の鎖国が解けました。

 

 

1858年(安政5年)修好通商条約が締結され、

居留地内にフランス人のための礼拝堂が

横浜と長崎に建設されることになりました。

 

 

1864年12月29日に大浦天主堂が完成しました。

 

正式名称は「日本26聖人教会」というのですが、

当時の村人たちはフランス寺と呼んでいました。

 

この建物はロマネスクとゴシック、

それに和風折衷の様式で建てられ、

その珍しさに連日参観人が訪れました。

 

浦上のキリシタン農民たちも

この珍しいフランス寺を見に来ました。

 

そして、天主堂に向かって右脇祭壇の上に

聖母子像が安置してあるのを見たのです。

 

 

「フランス寺にサンタ・マリアさまがおいでなさる。」

という噂がひそやかにささやかれて村中に広がりました。

 

 

「サンタ・マリアさまがいらっしゃるならそこの異人さんは、

パーデレさまに相違ない。」と村人たちは思いました。

 

 

しかし、当時信教の自由が許されたのは外国人だけであって、

日本人に対しては相変わらず厳しいキリシタン禁制が

励行されていましたので迂闊な行動はできません。

 

 

慎重に様子を見ようという老人たちに対して、

「フランス寺に行ってパーデレさまに会いたい。」と主張したのは、

普段から口数の少ない物静かな産婆イサベリナゆり(52歳)でした。

 

 

(文責: ミリヤム山本)

 

 

参考文献

日本キリシタン殉教史 片岡弥吉(著)

み声新聞 「日本キリスト教史」〜浦上キリシタン物語 まどかまこ(著)

京都キリシタン略史

  −「南蛮音楽伝来」〜カクレキリシタンが伝えた祈りの歌「おらしょ」付録