自己意識の覚醒期における恣意の自由への偏り
ぼくは、思春期での自我意識への目覚めの際に、その意識が妙にひねくれた自己否定あるいは自己秘匿の方向へ進んだと思う。大きな例では、学校の授業の場で、正解を解っているのに敢えて発言しない。その自己秘匿に恣意的で反抗的な自由の証をみる、という具合だ。公的場面ではこんな損なことはない。ところがこれはまだましな段階のことで、しまいにはぼくの意識は、自然であるべき活動をも侵食していって、話す行為や聞く行為をも恣意が縛るに至った。恣意的意識がもたらした、正常状態における痴呆状態であり、自然性への妙な純粋知性的な反抗意識が定着してしまった。ぼく自身がこの状態から抜け出したいのにどうにもならないのだから、立派な症候群と言えるのではなかろうか。ここからどうにか実践的に脱するのに、十年はかかったようだ。いまでも根本的に、ぼくの意識は自分と闘うことなしには生活していない。ほかのほとんどの同期の人間は、この類の意識葛藤には無縁の生活をしているようで、うらやましいといつも思っている。これは精神病ではなくて神経症の類だ。ぼくの路は、そこから少しずつ自分を砕き取る過程だった。天はとんでもない抵抗を、心身ともにぼくに与えた。まるで、社会的成功ではなく精神的成功のみがぼくの課題であるかのように。ぼくは何を語ろうとしてこれを書きはじめたのだろうか。なぜぼくが沈下していったのか、その契機はあれだったのだな、と今頃気づいたようにおもい、せめて寝る前に書き留めておこ うと思ったのだ。