初再呈示

 

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 先日引用した『分水嶺』の箇所の付近で、高田博厚と片山敏彦が、「自由」の当体そのものが人間に課する重圧について語り、フランスでは感じるこの自由の重圧が、日本では感じることすらできず、自由とは無縁の世間的重圧しか感じることができないことを、たしかめ合っている。1930年代のことであるが、これは現在でも変わらないのではないか。 

 

 

《 (片山)「君はできるだけ長くいろよ……」

 (高田)「・・・このフランスで、新しい自分を発見する、というのではなく、自分が出会うものの中にある『新しさ』とはなんであるかを思うとね、おそろしい重圧を感じるのだ」

 「だけど、フランスで僕たちは自由に呼吸できるんだ。自分の呼吸ができるんだ……日本に帰ると、君のいう重圧さえ感じられない。自分と全く縁のないものの重圧しかないんだ」

 「僕たちは社会的な自由よりも、あるいはそれ以上に『精神の自由』を求めているのだよ。それが日本にはない……」

 「それなんだよ。僕たちは日本にいて精神の自由を求め、それを知っていると思っていた。けれどヨーロッパに来てみると、いったいそれの実体はなんだろうとわからなくなるんだ。社会的自由とは別のものだけに、なにかあるんだな。君はこのあいだ、日本を発つ間際に、梅原のところで彼の制作中の裸婦を見て驚嘆したと言ったね。僕も彼の絵には傾倒していた。力量は別にして、梅原には岸田にないものがあるけれどもね、フランスの大家たちの作品を見ると、それらに感じるなにものかが梅原のものにはない気がするのだ。なんだろう? これは。精神の自由と言ってみても、おさまらないものがあるんだ」

 「それがヨーロッパのメタフィジックなんだろうな。東洋ではこれを『空間』として理解しようとしているが……」

・・・・・・

 それからまた三十年ほど後のことである。戦後梅原は毎年のようにパリに来、その度に彼が傾倒しきっているルオーを私と共に訪ねた。 ・・・

 帰りがけの自動車の中で、黙念としていた梅原が不意に言った。

 「君、フランスには『神』があるのか?」

 「たしかに在る。僕がフランスに居たいのもそのためかもしれない… …」

 観念(イデー)、これは「人間のもの」である。それが「自然」に繫がり解き放たれると、「空間」の思想が生れる。「人間」の中に存在しつづけると「神」という純粋観念となる。これら二つに違いがあるかないかは、思考の極限が「形」を為す段階ではじめて解るであろう。そして、言いかえれば、これは「経験」の集積において示されるのだろう……私の長いフランス生活で、自分の「思索」は絶えずこの課題を囲(めぐ)ってであった……》

『分水嶺』 著作集 II、 179-181頁

 

 

「精神の自由」という主題が出てきたので、同じ高田と片山の、他の箇所で語られている話題を記す。

 

《 ロランを訪ねた日の午前、ローヌ河が湖に流れこむあたりの白樺の野を片山と私は散歩した。桜草が咲いた原を踏みながら、語り合った。「自由」、「精神の自由」。これは二人とも持ちつづけている。そして、フランスを呼吸した片山は「より自由に」社会問題に対する「自分の無力」を肯定した。私もまた考えつづけてきた。そして自分が芸術の道を歩むかぎり、「社会」に対しては「無抵抗」で、自分からなにも求めない「消極的」存在であろうとした。このことは私たちの同人雑誌ですでに私は書いたことがある。けれども、「精神」とか「思想」とかを、私もまた「日本的」に勘だけで考えていたのではないか? それからずっと後、私が十数年をフランスに生きてきて、ようやく解ってきた「思想」の重さを、その時はまだ実感できなかった。「思想」は「行動」である。日本ではただの観念とか概念で片付けられているが、「思想」は「社会行動」と同様の「人間行為」である。「精神の自由」を守ることは、それだけの「自己負担」を意味する。》 

同、 171頁

 

 

 

自由を内実あるものにするための「自己負担」こそ、人間の生の醍醐味であり、これから逃れたい人間がいるなどとは、ぼくには想像もできない。

 

 

 

 

 

 

#高田博厚#精神の自由