明晰と深さを対照的に述べることが世にはあるようだけれど、それは変だとは初めから分ることだ。深さとは、明晰の極致でしかない。そうでなければ混沌の自己主張なだけだ。

 

ごく分りきったことだと思うけど、あらためて言ったのは・・・

 

きみが弾きながら真剣に楽譜を見遣っているのをみてね、そしてきみの演奏の緻密な明晰さをおもってね、これはかなわない、明晰さを通らない深さなんてそもそも通用しない、と あらためて思ったんだ。

 

 

 

ところで余談だけど

 

なあに?

 

いいのかね、ぼくは、これほど翻訳に力を費やしていて。きみの演奏と似た創造的な行為だと思ってやっているのだけれど、ぼくは、じぶんの思想を培い形づくることもしなければ、ぼくが生きている意味がないように思う。翻訳以前にはそれをやっていた。それも続けなければならない。ぼくほど忙しい人間はいないと言っていいほどのことをやらなければね。

 

 

それにあなたは、フランスの村にインスピレーションを得て、ごじぶんの心の庭の剪定をやりはじめたのですものね。

 

これはできる。明晰な確信だ。あの美しさは明晰な深さの証だ。そしてこれこそ個人主義なんだよ。穏やかに一般の他人を排除している。これが孤独なんだ。庭の剪定をするように意識的に純粋孤独をつくらなければね。もう倫理的関係の問題じゃないんだ。そんなものは一万光年も向こうに消えてしまった。