高田さんのような本物は、皆、この世過ぎの態度を持して生きていたのだと気づいた。(こんなことを今頃言葉に出しているのはぼくくらいのものだ。)だから、あれだけ堂々としていて、一流の人々の世界でのみ生きてきたひとのようにみえるが、じっさいにはぼくと同様、つまらない連中がその回りにはうじゃうじゃ居たのだ。それを相手にせず、否定し、「それでも関わってくるものには無関心無抵抗であろう」と悲壮な誓いを記した孤独のひとであった。この親しんできた言葉が、いま、ぼくのものとして理解できる。状況はぼくのものよりましなものではなく、もっとひどかったろう。ただそんなことを高田さんは書きはしない。書くならじぶんの純粋世界のみ。だからあのように仰がれるひととなった。つまらないものにどれだけ耐え忍んだことか。そのなかで「自分」を護り通したのである。しかも、何を、誰を、忍んだかなど、書きはしない。そんなことは根源的エリートの不文律だった。ぼくだって、高田さんには、ぞっとするような世間の嫌がらせがあったことを知っている。著作集の外で記されていることがある。しかしそんな無価値なことを書く者は、もともと高田さんとは無縁な者なのだ。だからぼくも言わない。高田さんの立派さは、そういうものにきっと苦しみながらも、じぶんの仕事と本質的思索に徹したことだ。価値あることのみを書いたことだ。それが「人間」高田を精神の星座に昇らしめた。「人間」の状況は、われわれの状況と全く変わらないものだったと思う。

 

違いがあるとすればそれは、われわれにはもう本物の人間に会う機会がないということだ。だからますますぼくは、じぶんを信じ、じぶんのみを信じて、過去の人物を鑑とし、孤独を栄誉とする、古風な人間でありたいと思う。現代において「人間」を護るとは、現在の人間から自分を護るということだ。