(普遍的憑りつかれ性(症))

 

多かれ少なかれ、とも一応言っておくが、人間はみんなこの性があるとぼくは確信している。むしろこれは自然で正常とも言えるものであり、精神病理学が架空の基準を想定しているかぎり、症とも言えるだろう。どんな人間でも或る突飛な瞬間に、何か他の人格に憑かれたような、他の人格のものだと明瞭に感知できるような言動をみせる。しかも本人には憑かれているという意識は無い。後で反省させても、不思議なことに殆ど本人の記憶には残っていない。むしろこれが普通の人間なのだ。或る必要に応じて時々臨時の端役を無意識あるいは半意識に演じさせられる。ぼくはこれをずっと集合的容喙現象として観察させられてきた。原理的に、皆がこの性を、じぶんで知ることなく持っている。それが発現するのは大抵一時的なものとしてであるが、いろんな時にそれは気づかれ、観察される。ぼくだって無自覚にそれに参与しているのではと思う時がある。学校の体育の時間にバレーボールをやらされて、なぜかその瞬間ボールがどこに来るかが明瞭にみえて、完璧にブロックしたことがある。大学の授業をやっていて、時限を気にせずノートの予定通りにやり、終わった瞬間に終業のベルが鳴って、学生が驚いたこともあった。ぼくには物事の経過がみえていたのだろう。状況のなかにおいてこそはっきりと。あるいは、ぼくが集中して行為している際には、ぼくにははっきりとしていなくともよかったのだ。日常の生活行為においても、ぼくが後年になって集合的容喙現象とじぶんで名づけざるを得ないようになった現象に見舞われることになるよりも前に、多分誰にでもある現象として、それは人間の生活に付き添ってきたのだと、ぼくは思うようになっている。そしてこの世の背後の力は、何らかの動機や目的(これは真面目なものとばかりは思えない)があれば、特定個人には、神がじぶんに覆いかぶさってきたとしか思えないような猛烈さで、現象展開することが出来るようだ。この力の経験と確認は、ぼくに、絶望と同時に希望をあたえる。いくらぼくでも、理論的反省だけでは、ひとつの形而上次元と言ってよい世界に、ここまで関心を開くことは無かっただろう。これまでは、天の悪意のようなこの現象とこの世界から、ぼくの本来の生理念を護ることで精一杯だった。いま、ぼくの生のひとつのサイクルが終結したことを暗示するかのような出来事に気づき、それに応じてなのか、ぼくの世界の観方、その可能性の眺望も、希望の持てるものに変わってゆくかもしれない。そのことをここに記した。

 

 

芸術創造の行為においては、無論、この憑かれ性は深いかたちであるだろう。この憑依が人格まで保証するとは、だから、無論、思わない(憑依だから人格分裂を起こさせることもある)が。(だから芸術家には普通者以上に謙虚と反省が必要なのだ。)

 

 

最近、世で、〈神〉という言葉や事象表現がはやっている。人間の本性から当然のことと思うが、本人に自覚があれば脱線しないだろう。

 

 

(作家の辻邦生氏は、「小説を書いている時の僕と、普段の日常生活での僕とは、違う人間だ。そんなことは当たり前」、と言っていた。)