貴重な初再呈示
ヘッセを理解しない者にぼくは解らない
- テーマ:
- 自分に向って
『彼は・・・彼女と語らい、彼女から学び、彼女に助言を与え、彼女から助言された。彼女は彼を、かつてゴヴィンダが彼を理解したよりもよく理解した。彼女はゴヴィンダが似ていたよりも彼によく似ていた。
(72-73頁)
『「おまえはわたしに似ている、おまえは多くの人間とは違っている、おまえはおまえ自身、つまり一個のカマラであってほかの何物でもない。そしておまえのうちには一つの静寂な場所、一つの避難所がある、そのなかへおまえはどんなときでもはいりこんで、自分自身とことばをかわすことができるのだ。わたしもそうなのだ。それができる人間は実に少ない、だれにでもできるはずなのに」』
『「賢いか愚かかの問題ではない。賢いといえば、カーマスワミーはわたしと同じ程度に賢い、しかし彼は自分の避難所をもっていない。知力ではほんの子供にすぎない者でも、それをもっている者がある。』
星は不動で天空にかがやいている。真の美をもつものはすべて不動である。 ぼくが「不動」と直観したものはこれなのだな。
ヘッセ、すくなくともこの小説は、精神が「バラモン」すなわち哲学者の者向きにできている。ここでいわれる「小児人種」向きではない。 つまり後者が読んでもほんとうに理解しないだろう。ドストエフスキー程度に参る者にとっては、ヘッセはじつは高嶺の花であることに、小児人種は小児人種であるゆえに気づかないだろう。