初再呈示

 

テーマ:

 

ぼくは、類型化した人間(女性)を描きたいのではなく、ひとりの女性の個性を、その個的存在を描きたいのだ。 そうすると思う、マイヨールの造る女性は個性的か。充分個性的である。日本の美人画のような、女性性のみを俗な視点で類型的に捉えた一般性とは無縁だ。そして同時に充分普遍的だ。その個そのものから、生きた、女性という普遍のイデアを、個を離れることなく現出させている。そのマイヨールにして、「私は個性にではなく普遍に関心がある」、と云っているのだ。具体から一瞬も離れずに。 

 

 はっきり言っておく。日本の美人画と云われるものは、ジャンルなのか知らないが、女性を観る態度が俗である。だいたい、ひとりの女性をひとりの人間として描ききっている画は、日本にはほとんどない。まるで、描かれる側と描く側の両方に、「人間」が不在であるかのように。そうしたら、世間的俗性か、良くて、自然な純朴さしか出ないのである。ぼくは、日本人の描く女性画に、本気で感心したことは一度も無い。俗から浄化されておらず、嫌な気がし、ぼくの関心ではない。画の技量の前に、日本人の「人間」の問題がある。自然に直接面と向って対峙しきれないのと同じ、精神問題である。意識的に培っていなければならないものが、日本社会に呑まれた意識生活をしているかぎり、培いようがないのである。

 

 

 

 

マイヨール作 

 

ブリヂストン美術館のこの絵葉書を眺めていて、上の文を書くことになった。 

 

無名の戦没画学生の遺品である画のなかにこそ、真剣なものがありそうだ。『無言館』集を開いていま観ているところだ。 

 

 

あの頃の若者はどうしてこんなに円熟した画境で制作できたのだろう。ひとりひとりが国の宝だ。この人生を断つ国権とは何だろう。

 

 

ほんとうにいい絵だ。「いい絵だ」の「いい」の意味が深い。 

 

 

 

 

「風景(出征直前、令状受領後之作)」 (『無言館』6頁)