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ヤスパース『哲学』III 第四章「暗号文の解読」 古川正樹訳 

 

2023. 9. 23~

 

 

(129頁)

第一部

 

諸々の暗号の本質

 

 形而上学的な対象性は暗号と呼ばれる。なぜならこの対象性はそれ自体としては超越者ではなく、超越者の言葉だからである。この対象性は言葉としては意識一般によって了解されるものではなく、ただ聞かれるものでもない。〔この〕言葉のあり方と、この言葉が語りかける仕方は、可能的実存にとってのものなのである。

 

 

三つの言葉

 

 超越者の直接的な言葉としての真なる内実は、実存の絶対的意識にとってのみ、現前するものである。この言葉は、単独的個人によって、歴史的一回性の瞬間において聴取される。—— しかし、このような言葉の伝達は、ひとつの一般化の路を行くのであり、この一般化において初めて、根源的に聴取する者もまたこの言葉を了解するのである。諸実存の許でのひとつの直観的な伝達である、この第二の言葉は、非交わり的なものに見えていたものを、かの根源から解き放して、物語、像、形態、身振り〔など〕として、ひとつの翻訳可能な内容にするのである。根源的には超越者の言葉であったものが、共有のものとなり、この第二の言葉の伝承の力で、根源へと後戻りに関係することで、自らを再び充実させるのである。——(130頁)思想が、終極的には、このような専ら〈ただ〉直観的な言葉へと向けられつつも、この直観的な言葉を貫徹して、この言葉の根源へと押し迫ってゆく場合には、思想は、形而上学的な思弁の形式の中に入って行って、なるほど認識不可能なものではあるが、思惟においてひとつの、哲学的伝達の第三の言葉となるものを、把握するのである。

 1.超越者の直接的な言葉(第一の言葉)。— 現存在の諸暗号において、存在についての経験が為されるべきなのである。現実が初めて、超越者を開示する。超越者については、一般的なものにおいて知られるのではない。超越者は歴史的にのみ現実から聴取されるのである。経験が源泉であるのは、経験的な知についても、超越者の確認についても、同様である。

 経験は《感覚知覚》としては、空間-時間的な対象としての事象を現前的に持つことである。経験は、自分自身を覚知する現存在においては、《体験》としてあるものである。経験は、《認識》としては、方法的に発展させられた演繹的-帰納的な研究が得る自らのその都度の成果である。そのような認識としては経験は、私が何を生み出し得て何を予想し得るかの、試みなのである。経験は《思惟》としては、私の意識にとって諸々の帰結を有する諸思想の遂行である。経験は《感情移入》としては、ひとつの現前的な現実の全体を、その諸々の状況のなかで感知することであり、そこにおいて他者と私自身にとって決定的なことが出会われ得るかどうかの試金石を伴っているものである。これらすべての経験の諸々に基づいて初めて、形而上学的な経験が生成するのである。この形而上学的経験においては、私は深淵の前に立っているのであり、私は、経験が単なる現存在経験であるに留まる場合には、慰め無き欠乏を経験するのである。この経験においては、充実させる現在〈現前〉というものが、この現在が透明となることによって暗号となる場合には、あるのである。

 このような形而上学的な経験が、第一の言葉を解読することなのである。この第一の言葉を解読することは、ひとつの了解行為ではなく、「根底に存するもの」の推測でもない。そうではなく、ひとつの現実としての「自ら居合わせる」ということなのである。合理的な確認ではなく、この合理的確認を超え出た、「現存在において存在が透いて見えること」なのである。この透かし見は、実存の最も原初的な直接性において始まり、思惟による媒介が最も高次なものとなること〈段階〉において、けっしてこの思惟〔そのもの〕であるのではないのだが、この思惟を通したひとつの新たな直接性であるところのものなのである。

 形而上学的経験は、この経験を万人にとって妥当なものとし得るような、あらゆる再検証可能性を欠いている。形而上学的経験が欺瞞となるのは、つぎのような場合である、すなわち、私が、私はこの経験を意識一般において任意に生じさせて持つことができると思う場合、また、この経験が知として取り扱われる場合、しかしまた、私がこの経験を軽率に、単に主観的な感情として扱う場合、である。形而上学的経験においては、単に実証的な現存在がそうであるのとは別の存在様態が、摑み取られている。この経験においては、単なる現存在から永遠性への存在転換があるのであり、この永遠性は、いかなる知もそこに迫ることはないものなのである。

(131頁)

 世界事物の諸々と体験と思惟とを経験することそれ自体においては、非知が消極的な限界であったのであるが、今やこの非知は、現前〈現在〉的な感性的現実への還帰において、充実させられる。しかし〔この非知は〕現存在内容としてではなく、暗号として〔充実させられるのである〕。私が超越者の存在を探求する場合、それゆえ、私は、あらゆるただ可能であるだけの経験を、有体的で、自ら実現させられるべき経験として、欲しているのである。その経験において超越者が開顕化するに任せるために。見ることのできるものを見ようとし、可能なものを為そうとする好奇心は、なるほどまだ実存的には盲目であるが、存在への路に気づこうとする衝動なのである。知にとって接近可能なものの多種多様性を越え出て、〔この〕踏み入りは、責任に結びついているものとして実現するという課題を摑み取ることによって、世界の中へ通じているのである。この踏み入りは、ひとつの提示可能な最終目標によって充分に根拠づけられることは決してなく、本来的存在の自己経験へ至ろうとするという、もっと深い衝動によって駆り立てられているのである——摑み取ることにおいてであれ、自己抑制と限定においてであれ。私は、可能性を止揚しながら、現実的なものに突き当たろうと欲する。諸々の可能性によって充実させられて、私は現実へ向かって歩むのであるが、私自ら個別的〈単独的〉で限定されたものになりつつ〔現実へ向かって歩むの〕である。なぜなら私が至ろうと欲する処は、いかなる可能性ももはやない処、決定的に現実的なものがある処なのであるから。この現実的なもののみが存在する。なぜならそれこそ端的な存在〔そのもの〕であるのだから。この端的な存在は、私にとって、時間現存在においてはけっしてそれ自体〔として〕出会われ得るものではない。しかしこの存在の暗号を解読することは、すべての他の行為と経験との意味となるのである。

 第一の言葉を解読することは、経験を必要とする。抽象的な思想ではなくて、現在〈現前〉の歴史的特殊性における暗号が、存在を開示するのである。存在であり得るものを私が推論したり算定したりする場である形而上学的な仮説が、私に存在を示すのではなく、それを超えては私は思惟しないところの暗号の有体性が、存在を示すのである。なぜなら暗号において存在は輝くからである。だが、経験であるところのものは、多義的である。アプリオリな思想そのものが、ひとつの経験となるのである。経験の要求は、ただ、空虚な思想にたいして向けられるのであって、事実的に遂行される実体的な思惟の暗号における存在経験にたいして向けられるのではない。

 超越者の経験は、一般的になる程、ぼんやりとしたものとなり、反対に一層決定的なものとなるのは、この経験が、「此処と今」においてのみ充実させられるものの頂点に登りつめるに従ってなのである。例えば自然〔の〕経験が暗号文の解読となるのは、全く個的なものの判明性が増大することによってである。すなわち、私が、ひとつの世界の全体が現前しているなかで、最小の現実の最も具体的な知を獲得する場合においてなのである。

 2.伝達において一般的となる言葉(第二の言葉)。— (132頁)ただ瞬間的な現在〈現前〉の直接性においてのみ聴取可能であるところの、超越者の言葉の反響において、諸々の像と諸々の思想としての諸々の言葉が創出される。これらの像と思想は、聴き取られたものを伝達するはずのものなのである。存在の言葉の隣に、人間の言葉が並び来るのである。 

 形而上学的な内実の言葉が客観的となった諸形態は、三つの直観的な諸形式を持つ。これらは、《特別に形成された神話》として、《彼岸の啓示》として、《神話的な現実》として、現われる。すなわち:

 a) ギリシャの神々は超越的ではなく、まだ現実のなかにある。クセノファネスからプロティノスまでの哲学的な超越行為が初めて、世界とこの神々とを超え出て突き進み、この世界と神々、つまりひとつの「現実のなかの神話」が、ほかの現実から区別されているのである。神々は、世界のなかの人間と出会うことがある。というのはこの神々は、諸々の形態として、経験的な現実と並ぶ現実なのであるから。現実の海は我々にとって、ひとつの突き止められないものの暗号である。語る諸象徴としての諸々の海神という形態において、この突き止められないものは「特別に形成された神話」となるのである。

 諸々の神話は、現存在の根拠と本質とを規定したはずであるところの、諸々の出来事を物語るものである。これらの神話が実存的な諸緊張の解消に通じるのは、合理的な認識を通してのことではなく、ひとつの歴史〈物語〉を物語ることを通してである。諸神話が被覆を外すのは、新たに覆い隠すことによってであって、〔諸神話自体は〕作用を及ぼす諸形態であり続けるのである。これらの神話〈作用を及ぼすこれらの形態〉は、何千年もの作者不明な創作諸物である。人間を超えた世界のなかで人間は、人間自身が何であるかを見るのである。神的存在者の行為として人間が観ずるものは、人間が人間自身の存在と行為としては未だ自らの反省の中にすくい上げていないものであるが、このものを人間は、観ぜられたものを規定することによって事実的に措定するのである。神話の意義は変遷するものである。神話はいかなる一義的な論理的構築物でもなく、解釈によって汲み尽くされ得るものではない。神話が常に歴史的なものであるとはいっても、神話の真理は永遠なものであり、この永遠な真理は、神話が神話として認識され識別されている場合でも、存し続けるのである。だが、諸々の神話の意味が自らを明かすのは、ただ、それらの神話のなかで自らの固有な、それ自体としては束の間のものである形態を得ていたところの真理を、なおも信じている者にたいしてのみなのである。人が諸神話を解釈する場合、常に、誤った単純化が発生するのであり、諸神話の歴史的な内実が失われてしまい、解釈からひとつの移動〈ずれ〉が生じることになる。なぜなら、それらの神話において必然的だとは全然認識されているべきではないものが、どのように知られ得るかで〈知り方次第で〉、必然的なもののように見えるからである。

 b) 彼岸世界の神話は、経験的現実を単に感性的な諸内容へと、本来は存在しないものへと、脱価値化する。しかし彼岸は経験的現実のなかに現われ、印と奇蹟を行なう。(133頁)ひとつの超感性的な全体が自らを開示するのである。現実の内で、神的なものとしての現実と懇意になる代わりに、実存は、別の世界であり本来の存在であるところの、現実の彼岸の中へ押し入り、この本来の存在が実存にたいして啓示を通して伝えられているのである。この啓示は、ある場合には、史実的に固定化されているものであり、反復せず、その都度時間が充実しているときに、一回限りの諸行為の連鎖による唯一の包摂的な世界劇として起こるのである。そして神の言葉と神の行為によって諸啓示が完成するに至るとき、世界は終わるかもしれない。別の場合には、諸啓示は反復して起こるのであり、世界劇はひとつの全体の効率性によっては組み立てられていない。無際限な世界的諸時期が交代し合うことになる。たしかに、現存在から窮極的に自らを格上げするという道は開かれるのであるが、それが万人と万物にとって何時成るのか、そして果たして成るのか、ということは模糊としているのである。

 c) 現実そのものが同時に神話的である場合、現実的なものは脱価値化されてもいなければ、客観的な特別形態によって補完されてもいない。現実的なものは、現実的なものとして、同時に、現実的なものに超越者を貸与するところの意義において、観ぜられるのである。この現実的なものは、究明可能なものの単純な経験的現実でもなければ(そうではなく、現実としてすべての究明可能なものを包み越えているのである)、経験的現実を欠いた超越者でもない。〔この場合〕超越者は完全に現前的なものとして、隈なく、現実的であると同時に超越的であるのである。ファン・ゴッホには、風景も諸事物も人間たちも〔すべて〕、事実的に現前していることで同時に神話的となるのであり、それゆえに彼の絵画の無比無類な力となるのでる。

 私が感性的な現在において同時に実存しつつこの現在がひとつの超越者であるように生きることをしていない場合、憧憬が目覚めているのであるが、この憧憬はひじょうに特異なものである。なぜならこの憧憬は、此処に在って現前しているものを、それでも憧れ求めているからである。この憧憬は諸事物を超え出て別の土地へ入ろうと努力しているのではなく、そのような彼岸へ入ろうとする努力を裏切りと見做さざるを得ないような憧憬なのである。なぜなら、〔そこでは〕実存的に可能なものが現在的なものにおいて遂行されていないからである。このような憧憬は神経質の現象ではない。神経質の現象においては私は、諸事物を現実のものとして捉えることも、私自身を現存在するものとして捉えることも出来ず、瞬間を実在的な現在として体験することも出来ないのである。神話的な現在において自らの満足を見いだすであろうような憧憬は、生命的に充実させられた現存在感情における単に経験的な現実であるところの、完全な感性的現在とは、まったく対立して存するものである。現実の欠乏ではなく、超越者の欠乏が、この憧憬の苦痛なのである。

 他者との交わりを通して、根源的な自己存在の諸現象としての私自身とこの他者とへ方向づけられながら、私は接近に接近を重ねてゆく。そして私の憧憬は増大してゆくのであるが、それは、それらにとってはもはやいかなる死も無いところの、あの諸瞬間においてのみ、己れを充実させる〔に至る〕ためなのである。ひとりの(134頁)人間に経験的に隣接しており、其処において自らの憧憬を高めるが、それはただ、空想的な彼岸無しに経験的な隣接を通してこの人間と超越者において結びつけられるためなのであり、そうして初めて憧憬を鎮めるためなのであること、これが形而上〔学〕的な愛である。〔そして〕この愛にとって、神話的な現実があるのである。

 3.思弁的言葉(第三の言葉)。— 思想が暗号文を自分に解釈してみせる場合、明らかに、他者としての超越者を認識し得るのでもなければ、現存在である限りでの現存在に関する知としての世界定位を拡大し得るのでもない。けれども思想は、自分自身の形式法則に服従することで、必然的に諸々の対象性のなかで思惟するのである。思想は、自ら新たな暗号文を書くことにより、根源的な暗号文を解読するのである。すなわち、思想は、自らにとって直観的かつ論理的に現前する世界現存在との類推によって、超越者を思惟するのである。思惟されたものは、それ自身、ただ象徴[Symbol]にほかならず、今や伝達され得るものとなった言葉のようなものなのである。このような言葉は多様な仕方で語られるものである。

 私が現実をそれ自体として直視している場合がある。いたる処で現実にたいして、「なにゆえにこのようなことがあるのか?」という問いが立てられる。しかし〔この問いは〕原因を追究する世界定位における合理的な問いとしてではなく、超越する問いとして〔立てられるの〕である。この超越する問いは、答えは不可能だと認識しているので、いかなる答えも欲していないのである。この問いは、現実的なものを言わば貫通しつつ、この現実的なものを充溢した実存的現在へと至らせることを欲しているのである。すなわち、「このようなことが現存在において可能であるようなふうに、現存在はあるのだ。このような現存在が可能であるようなふうに、存在はあるのだ」、〔と言えるように〕。驚きにおいて、憎しみにおいて、怖気(おぞけ)と絶望において、愛と飛翔において、「それはそのようにあるのだ」と観ぜられるのである。これは、現存在において存在を捉えるひとつの仕方であり、この仕方は、研究することで認識する世界定位とは本質的に異なるものの、この世界定位を素材としてのみ可能なのである。たしかに、伝達というものは、専ら、現実的なもののなかで動くのであるから、超越者無しでも了解され得るものである。空間のなかで現われるものの描写としての自然〔界〕記述や、人間の過去に関する経験的研究の包括的な伝達の一形式としての歴史叙述は、そういうものである。しかし、それらのもののなかで、超越して把捉することであるような言葉が語る場合には、それらのものは、形而上学的な伝達の媒体なのである。それらのものがそういう媒体であるかどうかは、悟性には決定できることではない。自ら超越する実存にのみ聴取可能なものなのであるから。

 私がはっきりと超越者である本来的存在について語る場合がある。その存在が何であるかが、存立する存在との、自己存在との、歴史的存在との、類比〈アナロジー〉において思惟されるのである。ひとつの全体が、ある思想像において完結する。だが思想は、ひとつの形而上学的体系に仕上げられても、ただ思惟象徴[Denksymbol]であるのみであって、(135頁)超越者の認識ではないのである。思想はそれ自体が暗号であり、ひとつの解読される可能性であるのであって、したがって〔既に〕思想自体と一致しているのではなく、その都度我有化されることによって初めて思想自体なのである。

 私が、超越者の存在への路を見いだすために、私の世界における私自身であるところの現存在に依拠する場合がある。「神の諸証明」の名の許でひとつの教説財産であるところの、諸々の思想行為のなかで、私は存在を、私自身の実体との事実的な関係性において確認するのである。この関係性を通して、それ自体は認識としてどうでもよいところの、容易に論理的戯言に変質する諸思想が、実存的な説得力を獲得するのである。この説得力は、客観的諸証明としてのこれらの思想には、完全に欠けているものなのである。

 私が、超越する想起と予見とにおいて、根源と終末とをひねり出す場合がある。

 諸々の思惟象徴の暗号において超越者を類比的に思惟する、これやあれやの仕方は、一括りにして、思弁が意味するところのものである。つまり、それはひとつの対象を認識することでも、実存開明的な諸々の反省を通して自由へ訴えることでもなく、また、何も摑み取らないが〔我々を〕自由にするところの範疇的な超越行為でもない。さらにまた、超越的なものへの実存的な諸関係を解釈することでもない。そうではなく、自ら摑み取ってひねり出し形成した暗号文において、超越者を触知すべく観想的に自己沈潜することなのであり、この暗号文が超越者を形而上学的な対象性として精神の前にもたらすのである。

 思弁[Spekulation]はひとつの思惟であって、この思惟は観想的に超越者の許にあろうと試みるのである。そのために思弁はヘーゲルによって神への奉仕[Gottesdienst]と呼ばれていた。だが、思弁は、認識であるような成果に欠けたままであるので、F. A.ランゲによって概念詩[Begriffsdichtung]として性格づけられていたのである。思弁は実際、思弁が自らのために前提して利用しそして溶解するところの他の思惟すべてとは、本質的に異なるものである。思弁は思惟を自身の思惟運動のなかで蒸発させるのであり、この運動はいかなる対象も固体的なもののようには手許に保持しないのである。常に束の間のものである対象性の代わりに思弁が置くのは、対象を欠いた機能であり、思弁はそこに本来的に寄り添うことで、斯く思惟する者の絶対的意識[das absolute Bewußtsein]を実現するのである。したがって思弁は、悟性の思惟行為において既に了解されるものではなく、この思惟行為を通しつつ、そこにおいて獲得されるべき絶対的なものが現前することによってのみ、了解されるのである。思弁はひとつの思惟であるが、この思惟は思惟しつつ思惟可能なものを越え出るよう駆る思惟であり、認識したがる悟性にとっては神秘主義[Mystik]である。思弁は自己存在にとって明晰性であり、この自己存在はこの思弁の明晰性において超越するのである。

 しかし、思弁は、不当に、神への奉仕と呼ばれるのである。思弁はただ、哲学におけるひとつの儀式に似たものなのである。思弁にとって、この〔儀式という〕(136頁)名は、分に過ぎたものである。というのも、思弁はただ暗号止まりであって、真正な儀式〔では出現するところ〕の、祈りにおいて言表される神性へ実在的に関係するようなことは、するには至らないからである。名によって、儀式と形而上学の思想遊戯との間に存するところの飛躍が、覆い隠されるのである。

 とはいうものの、概念詩という名もまた、この名をもってこの〔種の〕遊戯の無拘束性が思われているとすれば、適切ではない。「芸術のための芸術」[l’art pour l’art]である無拘束な唯美的芸術には、同様に無拘束な、諸々の世界仮説を事とする形而上学が、対応するであろう。この種の形而上学はただ、合理的な的確さと、評価可能なもっともらしさだけを、得ようと努めるのであるが、これは、自立的に生きているつもりの審美的領域での芸術が、形〈フォルム〉の的確さ〔だけ〕を得ようと努めるのと同様なのである。しかし、芸術が本来的なものである場合には、芸術もまた、無拘束なものではないのである。芸術はむしろ自ら暗号として語るのである。しかしながら、概念詩は、思弁と、超越者の別の言葉としての芸術との、このような類縁性〈アナロジー〉とは逆に、誤解を招く名なのである。というのは、この名は、両者〔思弁と芸術〕の〔各々〕特有なものを、一つに混ぜ合わせて混同するからである。すなわち、絶対的意識の直観的な澄明化と、思想的な澄明化とを、混同するのである。

 思弁は常にただ暗号に寄り添ってのみ在るので、思弁にとっていかなる存在形態もそれ自体としては超越者になり得ない。超越者にとって思弁は超越者自身〈自体〉の象徴において、ただ、一層近かったり一層遠かったりするのみである。思弁は自らの、暗号文として語る世界を有しているが、均等な領野上に有しているのではない。思弁がアクセントにするところの、実証的なものの事実性は、私に疎遠な現存在における、存在の末端として、遠いものである。この事実性は、私を外部から決定的に摑み取るものとしては、一層近いものである。事実性が最も近いものとなるのは、私自身が行為するところのものにおいてである。現存在の諸々の存在領域は——諸々のカテゴリーにおいて俯瞰可能になりながらも——、思弁の類推的思惟において等しい重要性を有するのではない。いかなる〔現存在の〕存在領域も、他の存在領域と同等な仕方で暗号として存在に的中するのではなく、存在に本来的で全的に的中するのではないのである。

 4.内在者と超越者。— 存在が我々にとって存在するのは、存在が現存在において言葉となる限りにおいてである。単なる彼岸というものは空虚であり、あたかも存在が存在しないかのようであるのと同じである。そのようなことから、本来的存在の経験の可能性は、内在的な超越者を要求するのである。

 このような内在者は、しかし、明らかに逆説的な性格を有するものである。万人が一致して経験し得るもの、〔つまり〕世界が、内在的なのは、まさに、意識一般において、超越的なものを区別することによってである。次いで内在的なのは、自己存在の実存的確信であり、この自己存在は、たしかにいかなる意識一般にとってももはや接近可能ではないが、超越者の存在とは区別されて自分自身にとって現前しているのである。この超越者の存在は、実存にとって、つぎのようなものとして存在している、すなわち、実存が本来的存在として自らをそれへと関係させるところのものとして。だが、超越者の存在が実存にとって現前する場合、(137頁)それは、その存在自体として〔現前するの〕ではない——というのも、実存と超越者のいかなる同一性も存立しないからである——、そうではなく、暗号として〔現前するの〕であり、その場合は、〔特定の〕この対象であるところの対象としてでもなく、言わば、あらゆる対象性を横切って〔現前するの〕である。内在的な超越者は、即座に再び消えてしまっているところの内在者である。この〔内在的な〕超越者は、現存在において暗号としての言葉となったところの超越者なのである。意識一般において、実験が主観と客観との間の仲介者であるように、暗号は実存と超越者との間の仲介者なのである。

 暗号は、超越者が客観存在としての存在になったり実存が主観存在としての存在になったりしなければならないというようなこと無く、超越者を現前させる存在なのである。超越者が、解釈された暗号において、知られた存在として客観となる場合、あるいは、主観性の態度の取り方の諸々が、形而上学的経験を知覚したり産出したりする器官の諸々として理解され育てられる場合、それはむしろ、真正な現前の根源から意識一般の領域への没落なのである。

 両方の場合とも、暗号存在の突き止められない弁証法は廃棄されるだろう。そして超越者としての彼岸と経験的体験としての此岸とが存し続けることだろう。客観的に、神と世界とが相互に疎遠なものとして対峙し合うことだろう。この分裂は、分離されたものどうしが関係し合うことの無い、ひとつの割れ目の定着であるだろう。これは端的に他なるものどうしの間の死せる深淵であり続けることであり、この他なるものは、最初は諸々の中間項を通して無際限なものの中へ眩惑的に戯れつつ満たされるかもしれないが、しかしその後は、世界のみが独り現存在を有するからには、じきに、神性と、あらゆる中間に押し入れられた眩惑物とを、抹消することが止む無きとされるだろう。在るのはただひとつの世界であって、この世界は、終結も全体性も無いまま、現存在存立としての存在の、無限な経験なのである。内在者と超越者とが互いに完全に異質となった場合、我々にとって倒れるのは超越者である。超越者と内在者とが互いに端的に他者であるものとして思惟されたている状態の後では、超越者が没するべきではないのならば、両者はむしろ我々にとって暗号において内在的超越者として、自分たちの現前的な弁証法とならざるをえないのである。

 暗号の運動は三つの言葉において変化する:

 暗号文の根源的に現在的な解読は、いかなる方法も持たず、非意図的であり、計画によって産み出されるものではない。そういうものではなく、存在の根源からの贈与のようなものなのである。この解読が、可能的実存の根元から、世界の内での超越者の確認として澄明になろうとする場合、この解読においていかなる知の前進もあるのではなく、現存在の歴史的に真なる透明化があるのである。

(138頁)

 方法は根源的経験を有するのではなく、根源的経験の伝達を第二の言葉において有する。神話啓示において、方法は、根源的暗号を、人格化や映像化あるいは映像的物語や教義的規定による特殊な対象性へと翻訳する、という路を歩むのである。この第二の言葉は、自らの根源的現実性がこの形〈形式〉においては我々にとってもはや到達可能なものではない場合〔でも〕、比喩言語として失われることはないのである。もうひとつの他の路は、現実を現実として語らせることであり、そのような形態化と強調化においては、現実は現実性として〈現実性のままで〉暗号となるのである。その場合は、経験された超越者は、内在的事実性を通して伝達されるのであるが、間接的に〔伝達されるの〕であり、私が単に経験的に現実的なものを見る限りにおいては、私にとって隠され、そこにおいて何が本来的に問題であるかを聴取する実存にとっては、顕示されるのである。真理は、一般的で万人にとって同一な存在へと変えられるならば、言葉の間接性を欠くことになるであろうから、消失してしまうであろう。

 諸々の象徴の多種多様性は、ひとつの全体の体系としての自らに閉じられた世界のいかなるものでもない。どんな象徴においても既に、超越者の現象として、総体性と統一性とがあるのである。私はこの象徴において、同時に私自身へと投げ返されながら私が向き合う〈態度をとる〉ところのものと、一つになりつつあるのである。したがって、近さと遠さとの諸相異があるものの、どんな象徴も超越者の一つ限りの局面であることに変わりはないのである。現存在が一つのものから他のものへの諸関係において存立を有し、概念的に理解され、それゆえ体系的認識は現存在認識と同一であるのに引きかえ、象徴存在は現存在を斜めに横切っているのである。象徴存在を知覚することは、経験的-現実的なものと強制的-妥当的なものとの錯綜した網を突破して、知られざるものの前に直に立つことを意味する。

 世界と超越者は、第一の言葉以来、その後のすべての言葉は自らを第一の言葉の充実としてこの第一の言葉に関係づけるのであるが、同一性無き統一性である。第三の言葉において思想がこの第三の言葉の理解を生み出そうと欲する場合、思想は悟性[Verstand]として始まる。悟性一般は超越者をも現存在としてのみ、同じ地平の上で世界と一緒に思惟し得るのであるが、この悟性一般にとっては、世界がすべてであるか、つまり世界が神であるか、あるいは、すべては世界と超越者であるか、なのである。この後者の場合、世界と超越者は二つのものであり、超越者は、此処には無いところの彼岸の別な現存在なのである。汎神論と彼岸の超越者との間のこの二者択一は、悟性にとって妥当なものである。しかし実存が超越者を確認する場合は、実存は超越者に、ただ世界との統一性においてのみ出会うのである。この統一性は、同時に、現存在に対峙する超越者の全く他なるものを(139頁)保持しているので、この統一性は、単なる世界としても、純粋な超越者としても、見られてはならないのである。実存の超越行為にとっては、悟性のこの二者択一逸脱なのである。それが、超越者無き汎神論的内在者への逸脱であろうとも、彼岸の世界無き超越者への逸脱であろうとも。真正な超越行為において遂行されるのは、最も深い世界肯定なのであり、この世界肯定が可能であるのは、暗号文としての世界現存在に対峙する場合である。なぜなら、世界浄化としてのこの最深の世界肯定においてこそ、親しく[heimlich]超越者の言葉が聴かれるからである。だが、〔内在者と超越者とへ〕分離されるならば、欺瞞無しにはいかなる世界肯定も可能ではないであろう。というのも、透明さを欠いた現存在というものには、それ自体の内での満足は無いからである。

 このゆえに、第三の言葉における信仰は、世界と超越者との区別を絶対的な区別として固定するか、この区別を全く否定するかするところの悟性を克服して、弁証法を客観化しようと努める。この弁証法は、根源的には暗号文において現前しているものであるが、思弁にとっては、運動において自分自身を止揚する思惟の形においてのみ、接近可能なものなのである。

 5.諸々の暗号における現実性。— 子供は、超越者の存在を、第二の言葉の媒介において、無疑問な現実性として経験することがある。子供は、見たり行為したりしながら成長し、自分自身の生活もろとも世界の中へと入ってゆく。この世界を子供は一なる真理として[als die eine Wahrheit]決定的にかつ幸福な思いで自らの全本質をもって知るのである、たとえただぼんやりと知るのであるにしても。その後、現存在経験が、それ以前の眺望を曇らせる。子供はもはや、万人が神と一つに関係づけられているようには見ず、人間は制限されていて乱用と破壊をするものであることを、鋭く感じるようになる。子供は〔いまや〕、彼から流出しそうで、彼が失うかもしれない存在のために、闘わねばならないのである。

 根源的な目醒めにある子供にとっては、いかなる史実的な客観性も存せず、ただ真なるものと現実的なものとの純粋な現前のみが存するのであり、子供の意識が攪乱されて彼が振り返って見るとき初めて、彼の、現実から既に乖離しつつある知にとって、彼には端的に真の存在であったものが、彼の特殊な歴史性として、伝承伝統となるのである。〔こうして〕根源的な意識はひとつの歴史的な意識へと変換される。現実性として実存を根拠づけるものが、観察にとっては過程として、ひとつの類型的な生起のように見えるのである。すなわち:

 形而上学的伝承の客観性は、最初、生成途上の実存を、自らの方に引っ張り上げるが、その後、生成してしまった実存のなかで、再び自らを解消する。客観性は、史実的なものとして、存続的なものの側面を有しており、初めて有意味的に問われることが出来るのは、(140頁)実存が単独者として自らの自己存在へ至る場合である。覚醒途上の意識にたいしては、ある伝承された存立が権威として与えられていたのである。〔権威の〕承認されることへの要求は、〔権威が〕問われることがある場合、既に満たされていたものなのである。この要求に、現存在経験は、拡大されてゆく世界定位と共に、反対する。この現存在経験は、何ものをも、有限で経験的なものとしては信じない、という態度へと駆ることがあるものなのである。このような実証主義〔的態度〕が、その後、この主義自身によって捉えられたこの主義の諸限界に臨んで崩壊すると、先の、最初はただ権威的にのみ存立する客観性が、あらためて摑み取られることがあるのである。この客観性は、超越者を実存的に確認する運動の中に熔解させられて、そこにおいて実体的な根拠が現前するところの機能として、貢献するのである。というのも、第二の言葉の諸暗号における超越者の客観性は、諸々の原理に基づいてひねり出され得るものでも、任意に「これこれの特定の目的のために」[ad hoc]考案され得るものでもなく、ただ歴史的にのみ獲得され得るものだからである。史実的な伝統においては、この、第二言葉の諸暗号における超越者の客観性は、先ず承認され、それから問われることで試され、次いで拒絶されるか我有化されるかすることで、新たな実存が鋳造されることを助けるのである。伝承された形而上学的対象性は、ひとつの類無き、高価な、かけがえない財産なのである。この財産は、前歴史的な諸根源に根ざしつつ、人類が自らの様々な運命のなかで何千年も通して獲得したものなのである。

 反省の大きな危機を経た後では、第二の言葉の諸暗号、諸々の神話や啓示といった諸暗号の、それ以前の現実性は、もはや同じものとして取り戻されるものではない。特別に形成された神話、啓示、神話的現実は、対象的な諸内実であるが、これらの内実の諸形式は互いに排除し合うように見える。それらの形式は実際にも相互と争い合うのであるが、それは単独な個々人の意識の内においてであって、この意識内でそれらは互いに撥ねつけ合いながらも語りかけ合うのである。危機〔の時期〕において、この争い〈闘争〉は、そこで問題であるのは私自身であるところの真摯さから[von dem Ernst]のものである。この危機は単独的な個人をして自立させる。なぜなら彼は、神話や啓示の権威的な伝統を問いに服さしめるのであり、今や、互いに排除し合う諸要求と対峙する自分に馴染まなければならないからである。かろうじて神話的現実が、決定的で疑いを容れない仕方で超越者の言葉である場合でも、この闘争は、終いには、欺瞞的隠蔽の可能性を拒否するために、総崩れになるのである。この場合、特別に形成された神話と、そして啓示とは、それでも尚も、相対的な意義を歴史的な思い出として有しているのである。守られた諸内実が、過去の諸形態において語っているのであるが、それは昔よりぼんやりとであり、もはや、完成されて自ら現実となった現在というかたちにおいてではない。

 そうした場合、超越者の表象超越者とを区別することへの問いが、差し迫ったものとなる。諸々の暗号のすべての言葉は、(141頁)夢の如き遊戯での単なる諸表象へと沈んでしまうことがある。しかし問題なのは、何処で言葉が現実であるかである。超越者の現実性は、決定的なものであるのはせいぜい第一の言葉においてのみであり、自らの内にあらゆる単なる表象を引っ張り入れてしまうのである。諸表象というものは流動的であり、不断の変遷のなかにある。しかし超越者の現実性は、根源的な暗号においては、あらゆる可能性を除いた現実性そのものである。第二の言葉と第三の言葉の諸形態が本来的な意味を保持している場合には、これらの形態は、この根源的暗号を解読するのに役立つのである。

 それゆえ、暗号は、暗号としては超越者ではない。暗号の解読は、神話的な諸形態へと導くことがある。つまり、自然および歴史の透明化する現実のなかで、私が諸々の理念を神話化して客観的な諸力とし、また、諸々の実存を英雄化することがある。しかしそういう場合でもやはり、特殊な神話性とあらゆる暗号との彼方で初めて私は、あらゆる神話性の根拠としての超越者の本来的深淵の中へと超越することが出来るのであり、この根拠それ自体はもはや神話化され得ないのである。

 

 

諸暗号の多義性

 

 暗号が、その都度、ひとつの世界存在と超越者との統一であるのなら、暗号は、ある他のものにとっての意義として思惟されるとき、止んでしまう。暗号文においては、象徴と象徴されるものとの分離不可能である。暗号〈暗号文〉は超越者を現前化するが、暗号は解釈され得るものではない。私が解釈しようとするならば、一緒にのみ存在するものを私は再び分離することにならざるをえないだろう。つまり、私は暗号を超越者と比較することになるであろう。ところが超越者は暗号においてのみ私に現象するのであり、だが暗号ではないのである。それ〈解釈したり比較したりすること〉は、暗号文の解読を、純粋に内在的な象徴諸関係の理解へと逸脱させてしまうことだろう。暗号文解読をすることは、〔その〕明晰な意識にもかかわらず、非意識的な〈意識的でない〉象徴主義的態度〈象徴学〉[Symbolik]の中に立つことなのである。つまりこの象徴学は、私にとって再度「象徴学」として知られることはないようなものなのである。意識的な象徴学は、世界内の諸事物を、一のものが他のものへ関係づけられていることを通して所有しようとするものであり、この他のものは、記号・暗喩・直喩・表象・模型といった意味を持ちつつ、これらの意味を持たなくとも存在するものなのである。〔だが〕このような象徴学は暗号文ではない。この意識的な象徴学は、自らの明晰性を、解釈行為においてこそ初めて得るのであるが、暗号文の非意識的象徴学は、解釈行為を通しては全く触知されないのである。すなわち、この象徴学において解釈行為が捉えるようなものは、当の象徴学ではなく、単なる象徴学のために破壊されて非本性化された暗号文なのである。〔この場合、〕象徴学は、つぎの意味での象徴のように明瞭になったことだろう。すなわち、その象徴の意義は、何処かに現存するものの意義として、表示され(142頁)得るようなものであることだろう。だが暗号文は暗号文自体として存在するのであり、他者存在を通して今一度明瞭となり得るようなものではないのである。

 象徴学一般は、一種の関係であり、この関係と一緒になって、この関係を超越しつつ、形而上学的な暗号文の本質が言表されるのである。とはいえ、この暗号文はいかなる関係でももはやなく、超越者の現存在における統一〈一致〉なのである。したがって、象徴学一般を超えて明晰であることは、超越者の暗号文を決定的に欺瞞無く摑み取るための条件なのである。

1.象徴性〈象徴学〉一般(存在の表現と交わりの表現)。— 総ての現存在は可能的象徴性に貫徹〈滲透〉されている。つまり、表現であり得ること無しには、何事も私にとって起こることはないし、誰も私と出会うことはない。このような「表現」は、存在表現としては黙して存立しているものであり、私が問うても、応答は無いままである。もしくは、このような「表現」は、交わりの表現であることがあり、私に語り掛け、問われると、話が交わされ、応答が為される。存在表現は普汎的[universal]なものであり、交わりの表現は人格〔のある諸存在〕に制限されたものなのである。

 存在表現を私が知覚するのは、人相学〔の次元〕においてであり、また、人間の非恣意的な〈無意識な〉身振りにおいてである。知覚されたものと知覚する者とは、話を交わしながらも相互性を欠いたままである。存在表現は、自分の本質をただ非意識的に、伝達への意志を欠いたまま表現するものであり、あるいは、内向的で打ち解けないままに留まっているものである。私が私自身をそのような私の表現において知覚すると、私は自分にとって一人の他者のように疎遠なものである。そこで初めて私は衝撃に見舞われる。なぜなら私がそれ自体であるからであり、今や、私にたいして呼び掛けが生じるからである。すなわち、私は自分にとって、それに狼狽するにせよ同意するにせよ、いかなるものとして現象するのか、という呼び掛けである。

 そのようにして知覚可能なものは、ひとりの人間の性格、気分、内的態度、気質、に関する諸々の確定として言表され得る。これらの確定は、当該の人間を彼の態度において観察したり、彼の伝記をまざまざと思い浮かべたりすることによって、再吟味され得るものである。そのようにして表現において知覚されるものは、何か経験的なものであって、その経験的なものとは、その許では、ただ対象的に体験され得るものではなく、諸々の関連において研究され、諸々の基準に拠って真か偽かに見えるものとして判定され得るものが、了解される限りにおいての、経験的なものなのである。それゆえ、身振りや人相性〈人相的なもの〉を知覚することには、経験的心理学の一面がある。なぜなら、表現において問題である存在は、現存在として、他の諸々の路においても接近可能なものだからである。

 だが、いかなる路においても、このような現存在さえも、経験的であるにせよ、何時でも誰にとっても同一なものではないのである。(143頁)表現を知覚することは、ただ意識一般の側から知覚することのみではなく、自由を通して自由を視ることなのである。というのも、ここで可視的であるものは、己れ自身の本質に依っているものであり、言表されながらも常にまだ可能性であるものだからである(この可能性は、他者にとってと同様、私にたいしても、己れ自身の自己生成において一層深く視よ、という呼び掛けとしてあるものなのである)。表現によって捉えられ固定されるべき経験的現存在は、したがって、絶対的に存立したままのものではないのである。私が経験的現存在をただの現存在へと客観化する程度に応じて、私は、根源的な関わりに私が着手する最初のところで、私の知覚能力をも制限することになるのである。私は人間を喪失し、存立する諸々の特性という性格図式のほかには何も保持しないことになる。しかし、私が本当に肉迫する程度に応じて、表現は飛躍し、一層深い意味における可能性となる。すなわち、私は自由へと押し迫り、この自由を、現前している現存在の高貴と卓越として観じ、人間の存在根拠を、その人間自身が時間に先立って為した過去の〔前時間的な・未生前の〕選択のように観る迄に至るのである。客観的認識にとっては、何ものかが現存するか現存しないかであり、何ものも他のものより高級であるわけではないが、表現を観ることにおいては、位階と水準は条件なのであって、この条件に、すべての観ることは、了解する者においても了解される者においても、従っているのである。存立する現存在を確定する行為は、表現を了解する行為の、普遍妥当的認識の意味においては常に疑わしくもあり、真には孤立化不可能な、単なる一側面なのである。このような表現了解は、それ自体としてはむしろ、その存立の背後には自由が立っているところの、ひとつの現存在を捉えることなのである。

 人間のこのような表現了解においては、経験的現存在が見いだされていたと同様、自由が見出されていたのであって、〔しかもこの両方は、〕一方は他方無くしては無いのである。それゆえ、〔この表現了解においては、〕経験的なものの検証と自由への呼び掛けとが、両方とも諸々の限界の内においてではあるが、見いだされていたのである。だが、人間のみが表現を有するのではなく、あらゆる諸事物が、ある存在を表現しているように見えるのであり、言わば語っているように見え、自らの位階と固有の品格、そして自らの衰退とを有しているのである。あらゆる現存在のこのような人相学的なものは、我々によって自然や風景において体験され、〔また、〕人間とその史実的な社会の模糊とした諸々の現実においても体験されるものであり、愛と憎しみにおいて摑み取られ、親密に自分のものとされるか、苦悩に満ちて拒絶されるかするものであるが、とはいっても、いかなる検証可能性にも経験的現実として服するものではなく、また、我々がその自由にたいして呼び掛けているところの本質的なものとして我々と出会うことも決してあり得ないものなのである。このような人相学的なものは、沈黙したままである。ひとつの現実が現われるのではあるが、この現実は決して認識されるものではなく、また、どんな意識にとっても同一であるわけではなく、私自身にとっても時間継起のなかで同一であるわけではない。この現実は、固定化され得ない透明性において現象するのであるが、私にとっては(144頁)あらゆる現存在のなかに気高いものとそうでないものという位階があるのであり、諸々の事物は自らの輝きと偉大さとを有するか、あるいは、無意味に思われて私の心に触れないか、あるいは、品の無い不快なものとして私を突き放すかなのである。—

 交わり的[kommunikativ]な表現は、単なる存在表現とは異なり、伝達しようと欲するものである。交わり的表現のみが、本来の意味での言葉であり、これからすれば、すべての他の表現は、ただ比喩的に言葉と呼ばれ得るにすぎない。交わり的表現においては、思念された意味が、翻訳可能な内容としてあるのであり、この意味に基づいて呼び掛けと要請が、問いと応答が、出来するのである。

 交わり的表現においては、自分特有の根源的な象徴知覚を伝達することも探求される。自分自身との交わりにおいて、第二の言葉を通して、直接的にはなるほど現実的であるけれども模糊としているだけのものが、理解されるに至るのである。交わり的となった象徴性こそが初めて本来的に現存する。知覚する者が反響することで、あらゆる現存在の象徴性は、その象徴性の一般的なものの側面に沿って伝達可能となるのである。再生されたものとして初めて、根源的にはただ直接的であるだけのものが、意識的なものであるのである。直接的な象徴性は源泉であり続けるが、それ自体が知覚されるのは、大抵の場合、ただ、既に言葉となっている程度に応じてのみなのである。創造的な存在観照の諸瞬間だけが、言葉を産出することによって言葉を拡張するのである。

 交わり的な表現は、この表現を通してあらゆる他の表現も初めて伝達可能な言葉へと変換される限りにおいて、包摂的[umfassend]な表現である。しかし〔一方〕、存在表現が包摂的な表現であるのは、交わり的表現が単に現存在の内での飛び領土となり、自らその都度、交わり的表現の現存在の全体としてもう一度再び、存在の表現となる限りにおいてであって、その場合、この表現は非意識的にこの存在にとっての象徴なのである。交わり的表現は明るい了解可能性であるが、この了解可能性が本来的なものであり、空虚な明瞭性の中に溶け入ってしまわないならば、この了解可能性は自らの側では、存在の了解不可能性の表現であり続けるのである。

 2.象徴解釈(任意な多義性)。— 伝達をする言葉から〔観ぜられて〕初めて、直接的な存在表現は、言わばひとつの言葉となる。反響の内で創造された象徴性において、この表現の解釈が生じるのである。だが、この解釈が思想において固定化されたり、この解釈を規定することが試みられたりするならば、かの象徴解釈は仕事となっているのであり、この象徴解釈は、相互に非常に異質な諸領域で、夢解釈、占星術、神話解釈、人相学、精神分析、形而上学、等のように、外面的には比較可能な仕方において行なわれるのである。その際、引き出される意義が何であるかは、思念される象徴性の方向に従って変化する。例えば、太古の夢解釈では、来るべき諸々の出来事と運命とが、占星術では(145頁)個々の人間の過去と未来、諸々の特性と職業、幸と不幸とが、人相学では諸々の性格が — だが、このすべても、これらの領域の間では相互に入れ替わるのである —、精神分析では、諸々の空想、夢、態度様態において知られる、抑圧された諸々の衝動体験が、引き出される意義なのである。形而上学で解釈行為が為されるならば、超越者の存在が、引き出される意義であることになろう。その都度諸象徴の内でのみ現象するものは、それ自体もはや現象としてではなく、存在そのものとして[als das Sein]思念される。根源的な諸象徴も、諸象徴の〔そのまた〕諸象徴も、すべては解釈されるのである。解釈行為は、人間達が生きるようになって以来、俯瞰出来ないほど多量の諸形態と諸思想で生じてきたのである。そこでは、ある共通のものが無際限性任意な多義性となっている:

 意義であるのは何であるかが言われるべきである場合、意志が恣意として阻止せず、制限して解釈精神を固定しないならば、可能なものと任意なものとの無際限性が開かれることになる。問題であるのが、古代の夢解釈、神話解釈、夢に関する精神分析的解釈であるにせよ、あるいは形而上学的-論理学的な世界解釈が問題であるにせよ、常に、見渡しのきく諸規則と諸原理とが立てられる。これらの規則と原理とは、端的に特殊なものにおいて一切が可能であり続けるようにさせておき、かつ、あらゆる生じ得る反対解釈を共に自らの内に取り入れておいて、すべての敵側を既に先取しながら解釈し、自分自身の解釈が真であることの証明の構築材料とするのである。ベイル[Bayle]はこう言った、「寓意〈比喩〉的な諸解釈は精神の目であり、人はこの目を無限に多重化し得、この目を通してあらゆる事象のなかに、人が欲するすべてを見いだすのである」、と。諸々の神話解釈は、精神分析と同様、この命題を裏づけている。そのような諸解釈を擁護する者たちに固有な確かな感じというものは、〔じつは、〕つぎのことから来ているものなのである。すなわち、彼らは自分たちが反論され得ないと感じているが、彼らが忘れているのは、あらゆる反対根拠というものは、それら解釈の諸原理のおかげで、それら解釈に賛成する根拠として〔も〕利用可能であるのなら、それら解釈にしても、それら解釈の諸洞察と称するものの証明可能性は一切欠けている、ということなのである。諸々の形而上学的思想体系は、暗号文として自らの可能的意味を持つであろうものだが、知として適用されると、すべてを了解するもののように見える。そうした形而上学的思想体系のなかで、ヘーゲルの論理学は傑出した例である。彼の論理学の弁証法は、あらゆる反対論拠を初めから自分自身の真理の部分にすることを、唯一無類の仕方で許すのである。矛盾がそれ自体取り入れられており、あらゆる形態において〔概念的に〕理解され、克服されている。矛盾はもはや外部から来ることは出来ないのである。諸々の意義〈意味〉は自分自身と自分の反対物とを〔共に〕意味するものなのである。

 3.象徴性と認識。— 象徴性を認識として見做すことは真ではない。(146頁)すべての現存在について任意に採用される諸々の補助仮定のおかげで強力であるように見えるところの、僅かな諸原理に従って、現存在を解釈するやり方は、単調になる。人はこのやり方を用いて、自分自身と世界との最深の諸根拠を自由に扱うように見えるが、自分で作った、何処においても何らかの仕方で適切であるような諸公式の範囲の内で、動いているだけなのである。象徴は認識としては何ものでもない。取り決めによる象徴性が多様な形態の技術的手段として記号言語となることは、このことと矛盾しない。数学における諸記号、諸々の自然科学における模型の諸々、生物学における諸象徴は、自らの確定可能な一義的意味を、合理的認識への貢献において有している。しかしそれらは認識そのものではないのである。

 これに対して、形而上学的象徴は、暗号としてひとつの存在であり、暗号においてそれ自体なのである。経験的知にとっての現実存在は、ただ、諸々の連関性と依存性とにおけるひとつの存在として在るのみであって、それら連関性と依存性とを通して概念的に理解されるのである。発生論と原因論は、何かが現存在するのかどうか、いかにして現存在しているのか、を示す。現存在するいかなるものも、それ自体で存在するのではなく、すべての現存在するものは諸々の関係のなかで存在するのである。これに対して、超越者の暗号としての象徴存在は、関係において在るものではなく、ただ、自分に気づいている者にとってだけしか、在るのではないのである。象徴存在は言わば、深い次元における現実へと斜めに立っているのである。その次元の中に人は沈潜することは出来るが、その次元を即座に全く失うことなしには、その次元から出て来ることは出来ないのである。

 それゆえ、いかなる象徴研究も可能ではなく、ただ、象徴把握と象徴創造とが可能であるだけである。史実的に生成して存在していた象徴観想の言葉を探究することは、それ自体、ただ、研究者における主観的な諸条件の下でのみ、可能なのであって、この研究者は象徴を観じる能力があり、かつ、あらゆる研究に先立って自らを象徴にたいして開放的に保つ能力がある〔のでなければならない〕のである。

 4.解釈可能な象徴性と観想可能な象徴性。— 人が、「意味する働き〈意味作用〉」を「意味されるもの」から切り離すことによって、意味作用〔そのもの〕に思惟によって没頭し始めると、人はただ、全分野横断的〈普遍的〉な象徴性の無際限なものの中へと陥るだけである。すべてはすべてを意味することが出来る。つまり、遍く代替可能な「行ったり来たり」なのであり、これは、一定の諸規則や諸々の図式性がそれに基づいて妥当するところの観点毎のものなのである。解釈可能な象徴性は客観的であり、この象徴性の意味は解消可能なものである。この〔解釈可能な〕象徴性は、「比較して標示すること」なのであり、ただ諸々の取り決めを通してか、心理学的に理解可能な諸習慣を通してのみ、確たる存立を有するものなのである。

 だが、人が超越者の暗号としての象徴に接近する途端に、象徴は観想可能なものであるのである。観想可能な象徴性は、印と意義とを分離させておかず、この二つを一なるものとして摑み取るのである。なるほど、把捉されたものを自らに明確にすべく、人は再び分離するが、それはただ、新しい(147頁)象徴性を通してのみ〔分離するの〕であって、一から他へと解釈することを通してではない。人が既に持っていたもののみが、一層明瞭になるのである。人は立ち戻り、新しい深みの中を覗き込む。暗号文の言葉としての観想可能な象徴性は、ただ、ある実存にとってのこのような深化にのみ、接近可能なのである。解釈可能な象徴性〔の方〕は、意識一般にとって存立するものである。

 いったい諸象徴は究極的には何を意味するのか、と私が問うならば、解釈する象徴性は、実際にはつぎのような究極なものを、私に名指ししてくれる。すなわち、神話理論は例えば、諸々の自然過程と、農耕および手仕事での人間行為とを、本来はすべてそれが問題であるところのものとして主張し、精神分析はリビドーを、ヘーゲルの形而上学は弁証法的な論理的概念の運動を、主張するのである。究極なものは、そのように、ロゴスのような平板な実在性であり得る。この究極なものは、どんな性質のものであれ、一義的に規定されている。しかし、幾重もの解釈の末にこのような一義的なものを意味している諸象徴は、いっさいを意味するものとして、多義的で無規定なままなのである。

 観想可能な象徴性は、いかなる究極なものも知らない。この象徴性においては、ひとつの開顕性が現前しているのであって、この開顕性は、たしかに一層深い充実ではあるが、この開顕性がそれによって自らを概念的に理解するようないかなる他のものをも知らないのである。この観想可能な象徴性は、そうでなければ既に知られているところの、この象徴性がその現象である存在へと、最初から集中されているのではない。そうではなく、この象徴性は、現在的な瞬間に開かれるところの自らの開顕性の内にあり続けるのであり、同時に、究め難い深みを伴っており、この深みから無規定的な存在が、ただこの象徴性〔の開顕性〕そのものを通してのみ、輝くのである。

 この観想可能な象徴性は、本来の解釈可能性を欠いており、超越者の暗号文としてのみあり得るのである。この象徴性においては、自らをひとつの解釈行為として与える〈提供する〉思惟それ自体が象徴となる。ロゴスを洞見する行為においては、暗号文を解読する眼差しが、ロゴスの根拠へと押し入るのである。あらゆる解釈行為が暗号を語る行為となり、この暗号は実存にとって解読可能なものなのである。この実存は、暗号において存在を知覚し、この存在を実存自らの超越者として信じるのである。

 5.循環している解釈行為。— 認識としての解釈行為が無際限性と任意性を持ち、この解釈行為において、この無際限性と任意性とが証明と反駁とを不可能にし、それゆえ解釈行為を認識としては破滅させるとしても、それでもやはり解釈行為は、その都度自己内で回転する循環として、それ自体で第三の言葉の象徴性格を獲得することが出来るのであり、この第三の言葉が思弁的に暗号文を解読するのである。この循環は、論理的なものとしては認識にとって空虚であり、そこでは論議が無意味となるような循環であるが、ある実存の内実を通して充実させられるなら、他の次元において〔この循環は〕、自らをこの〔第三の〕言葉において伝達するところの、超越者の中を見遣ることが現前していることなのである。ここから観ずれば、全体なるものを究めようとするすべての諸解釈は、実際、暗号文の創作と解読との諸様態なのである。

(148頁)

 象徴を認識の意義があるものとせよという要請は、科学的にそれ自体否認されるものである一方、〔可能的〕実存は実存自身の超越者を象徴において再認識するのかどうかという、可能的実存の問いは、暗号という象徴の性格へと関わるものなのである。循環の真理は、論理的ではなく実存的な基準の許にあるのであるから、私が居合わせている処、私が真理を私の自己存在を通して覚知する処では、何処でも、この基準が自問するのである。例えば、私は、存在の精神分析的な解読を、あるいはヘーゲルと共に論理的-弁証法的な究明を、私の自由からして受け入れるのか、それは正しいのかどうかではなく、と、この基準は自問するのである。というのも、それらは正しいのでも間違っているのでもなく、認識としては何ものでもないからである。私が自分を納得させるのは、私自身がそれであり、私自身が欲するところのものによってなのであり、悟性〈分析的知性〉や経験的観察によってではない。基準はもはや、ある最終結果を伴う科学的な方法的探究の基準ではなく、問いは、実存的に真であり、また、実存的に破滅的な、暗号の言葉への問いなのである。認識としては崩れたものが、自己存在が己れの超越者を知っていた仕方にとっては、象徴として留まり続けるのである。この超越者の真理を私は、暗号文を私自身で再度解読することで超越者を経験することによって、支持代弁するか、あるいは、その真理に異議を唱えるのである。このことによって、その都度私にとって、つぎのことに関する決定が生じる、すなわち、何が深み無き解釈であって、世界の内で諸事物を単に関連づけるだけのものであり、この関連づけにおいて私は常にただ繰り返し、私が既に知っている基底にぶつかるだけであるのか、そして、何が存在の暗号となり、この暗号の中へと私は、根拠を見いだすこと無く、自分を沈潜させ得るのであるか、ということに関する決定である。

 6.任意な多義性と暗号の多義性。— 解釈可能な象徴性は、あらゆる個々の具体的な事例[Einzelfall]を無際限に多義的にするのであり、終極のものは案出されたものであって、無効な一義性を有するだけで、〔やはり〕解釈されるのである。しかし、真正な暗号の観想可能な象徴性は、別な多義性を持っている。

 暗号が解釈されてひとつの知へと変えられ、斯くして客観的妥当性のあるものとなるはずであるなら、暗号の多義性はこのような実存的に根こぎにされた形態においては、なるほど、あらゆる解釈する象徴性の多義性と同様な多義性である。しかし、暗号が一般に解釈されるのではなく、暗号の根源において保たれるのなら、暗号はこのような多義性を持つものではない。

 しかし、根源的な暗号が、思惟されることそのものにおいて解釈となり、この解釈が再び暗号となるならば、その多義性は劣らぬものであるが、任意なものではなく、可能的な実存的我有化の多様性における多義性なのである。我有化の可能性であるこの多義性は、実存の歴史的現在の瞬間において初めて、この実存にとって、翻訳不可能でこの実存そのものにとって〔も〕不可知な仕方で、一義的となる。この(149頁)一義性は、この実存にとって充実させるものである超越者のかけがえのなさ〈代替不可能性〉においてあるものなのである。

 ひとつの憶測的な知る行為としての任意な解釈行為においては、その都度の出発点規定されており、解釈無際限であり、解釈の目標はひとつの有限な存在である。暗号文を解釈する行為においては、出発点は、超越者のそれ自体において無限な自己現前であり、暗号有限で規定されており、解釈目標は、規定されることのないまま、かの既に現前している無限性なのである。

 知を探求する解釈においては、有限なものが最初のものである。この有限なものから、無限なものを制御する路が、解釈行為の無際限性の形において空しく探求されるのである。〔このような〕解釈は、けっして現実に〈本当に〉生じるのではなく、ただ見せかけの上で、いかにしても事実性を支配するようにはならずに単に繰り返されたり蓄積されたりするだけの諸定式を通して、生じるのである。憶測的な認識としての象徴性の解釈行為においては、一切が、ただ有限であるゆえに、味気の無いものとなる。無限なものは失われており、人は無際限なものへと不承不承に頽落するのである。これに対して、暗号文を摑み取ることにおいては、無限なものが最初のものである。超越者の現前としてのこの無限なものから初めて、有限なものが暗号文となるのである。

 超越者の無限な自己現前の一義性は、実存の時間現存在における、ひとつのその都度完結する頂点である。とはいうものの、暗号が一般的なものの一側面を獲得し、伝達可能なものとして私と出会い、しかもそれが、かの諸々の頂点が継起的に語り掛けるような仕方においてであることが、普汎的である場合には、多義性が、実存的な我有化行為と実現行為との可能性を通じて、あるのである。

 ゆえに、問う行為の形而上学的態度にとっては、暗号文における何ものも究極決定的ではない。暗号は、自由が暗号において超越者を現前させる処に、在るのである。暗号は常に、もっと違った仕方で解読され得るのである。けっして、暗号において、超越者が今や言わば算出されるような、超越者に関する推論などは存在しないのである。私のほうから観ずれば、暗号は、残り続ける多義性を保持している。だがこれは、超越者のほうから語られるなら暗号はもっと他の仕方で伝達され得ることを意味する。時間現存在においては、暗号文は究極決定的となることはあり得ないだろう。〔究極決定的となるなら〕どんな可能性も残存することなく、一義的な完結が取って代わることになろう。〔そうなると〕暗号文は、今においては、まだ無拘束的でありつつ可能性としては拘束的であるようなものの、ひとつの空間であり、その後は、特定の〈この〉実存にとっての拘束性となるものなのであるが、〔問題の暗号文は〕一なるものでも他なるものでもないものであり続けることであろうし、もはや暗号文ではなく、超越者の唯一存在となることであろう。暗号文は、今においては常に、完全になる可能性の無いひとつの特殊なものなのに、総体的なものとして自己止揚することになるだろう。今においては消滅的で歴史的な暗号文が、存立する絶対的なものとなるだろう。

(150頁)

 あらゆる暗号の無限な多義性は、時間現存在において、暗号の本質として示される。暗号を他の暗号によって解釈することには、直観的な暗号を思弁的な暗号によって解釈することであれ、現実的な暗号を産出された暗号によって解釈することであれ、いかなる終わりも無いのは、解釈が媒体としてあるからであり、この媒体において実存は、自らの超越者を確認したり、予め準備しつつ自らに諸々の可能性を生み出したりしたいと思うのである。諸々の暗号の体系というものは不可能である。というのも、そのような体系の中に諸暗号は、有限なものとしてのみ入り込むであろうが、超越者を担うものとしては入り込まないであろうから。無限な多義性は、可能的諸暗号の体系なるものを排除する。体系なるものは、それ自体がひとつの暗号であり得るが、けっして構想〔のようなもの〕として、真正な諸暗号を有意味に包括し得るのではないのである。

 

 

暗号文の解読の場としての実存

 

 1.自己存在を通しての暗号解読。— 暗号文の解読においては、私から独立して存立する存在が捉えられることは、めったに無いというよりもむしろ、このような解読はただ私の自己存在と共にのみ、可能なのである。超越者の存在それ自体は、私から独立しているのだが、しかしそのようなものとしては接近可能なものではないのである。接近可能性のこのようなあり方は、ただ世界内の諸事物にのみ特有なものである。だが超越者から私が聴き取るのは、ただ私自身が生成するに応じてのみなのである。私が萎えると、超越者自体は常に現前しているものの、超越者は曇ってしまう。私が超越者を捉えると、超越者は私にとって存在であり、この存在のみが存在するのであって、私無しでもこの存在は、この存在であるところのものであり続けるのである。

 世界の現実が知覚され得るためには、感覚の諸器官が無傷であらねばならないように、超越者から出会われるためには、自己存在が可能的実存にとって〈可能的実存の自己存在が〉現前していなければならない。私が実存的に耳の聞こえない者であるなら、対象のなかに超越者の言葉を聴くことは出来ないのである。

〔 ヤスパース『哲学』III 第四章「暗号文の解読」2 へ続く〕

 

 

 

第一部:諸々の暗号の本質(129頁)

 

三つの言葉(129頁)

1.超越者の直接的な言葉(第一の言葉)—(130頁) 2.伝達において一般的となる言葉(第二の言葉)—(131頁) 3.思弁的言葉(第三の言葉)—(134頁) 4.内在者と超越者 —(136頁) 5.諸々の暗号における現実性 —(139頁) 

 

諸暗号の多義性(141頁)

1.象徴性〈象徴学〉一般(存在の表現と交わりの表現)—(142頁) 2.象徴解釈(任意な多義性)—(144頁) 3.象徴性と認識 —(145頁) 4.解釈可能な象徴性と観想可能な象徴性 —(146頁) 5.循環している解釈行為 —(147頁) 6.任意な多義性と暗号の多義性 —(148頁)

 

暗号文の解読の場としての実存(150頁)

1.自己存在を通しての暗号解読 —(150頁)