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感覚としてはっきりしてきたこと:
「聖なるもの」に根ざしているかぎり純粋であり、「聖なるもの」から自分を分離しているかぎり俗物である。俗物であるということは存在が虚偽であるということである。純粋であるということは存在に充たされているということである。
ここで「聖なるもの」とは巷や学者世界で云われているそれよりずっと純化された意味で言われている。内実不明な畏怖感情を抱かせるものは、何ら「聖なるもの」ではない。
「聖なるもの」とは、ぼくが純粋さと言っているものの当体であり、その根源である。それは感覚として「存在」であると納得されるものである。それを「美」として感覚する。
理屈や観念ではなく、はっきりとしてきた感覚のみでぼくはこれを書いている。美しいと感ずるものをはっきりとそう感ずる感覚のみで。
人間の魂の発露とその表現されたもの以外のものを通しては、美も聖もけっして感覚されない。ぼくの魂主義は感覚としておよそ徹底している。
学者は観念病から脱さないかぎりけっして純粋にはなれず、ただ俗物である。
ぼくの前にはいま、裕美ちゃんの像が醸し想起させるものと「エル・スール」の情景から伝わってくるものとがあり、それをぼくははっきり「感覚観念」として受けとめているところなのだ。この「感覚観念」は具体的であることによって普遍的なものであり、ぼくに「聖なるもの」をひじょうに洗練かつプリミティヴにはっきり教えてくれている。これをしっかり感じつづけていないとぼくは観念詭弁に陥るだろう。そういう〈解釈鑑賞〉だけは徹底的に排斥しなければ、「ぼくの魂主義」は成立しない。魂の観念思弁ではないのだ。ほんとうの芸術創作は、「聖なるもの」に自覚的意識的に沈潜する努力によってこそ成る魂の仕事だろう。ぼくもこれからそういう仕事をやりたい。知性的自覚的に芸術創造がしたいのだ。真の創作者が為しているように。そのような創作の知的努力は、論文作成に無限に優る。
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ぼくの感じることはすべて当然な正当なことであり、それがぼく個人の「主観」における感情だからといって、何ら責めや負い目の意識である重たい感情をぼくが背負うことはないのである。むしろこういう責めの感情をどうしてぼくが、いちいちの自分の主観感情にかんして抱くようになったのか、そのことのほうが問題なのである。なにかこう、「主観」的であるから「客観」的でない、世界にむかってそれを主張できない、という、それこそ臆見に類する先入観を、いつしか自分に埋め込まれたか、自分で埋め込んだらしい。自分の主観感情を、もういちど客観視してとらえ、自分という個体に生じる感情なのだから、世界のなかの個体における事象として、ひとつの客観的事実なのだとうけとめる必要がある。
もうひとつの表紙: 中央に立つ父親は、霊力によって、水の湧く井戸になる地点と掘る深さを探ろうとしている。手に持つ振子を地面に向って垂らし、もうひとつの手で、後ろに立つ娘から一枚ずつ貨幣を受け取っている。一貨幣一メートルの深さを意味し、掘るちょうどの深さになったとき、揺れている振子が止まるのである。父親は心を無にして仕事に集中している。彼の「精神集中線」が、この画面の中央を垂直に貫いている。これが、「中心に存在する聖なるもの」なのである。これを中心に位置づけているからこそ、仕事を手伝う、端にいる娘との「聖なる親密さ」が、まるで聖家族のように(事実そうなのだが)観る者の心を打つのである〔父と娘をただ並ばせている構図では無論ない〕。ぼくはいまルオーの描く、人物のいる風景画――しばしば「聖書の風景」と名づけられている――のいくつかを想起した。それと同質同性格なのである。「聖なるもの」を軸と源泉にしてこそ人間は真に結びつく。そのことを「啓示」していることによって、ガブリエル・マルセルの、形而上的家庭情景劇(まさに「形而上的アンティミスム」の証の戯曲世界)の境位とも本質的に通底しているとぼくは感想する。親子が霊界への参与によって探している「地下の泉」もまた「聖なる根源」の象徴であろう。そのいみでタルコフスキーと同一の主題を探求していることをもいまぼくは納得している。
意識は、生と記憶とであり、記憶は生かすもの、それじたい生きているものである。「生命」のない、すなわち存在のない記憶というものはかんがえられない。存在は物質や質量(質料)ではなく生である。記憶は銅板に刻まれた印ではなく、生とひとつになって存在し、生きて感ぜられるものである。記憶こそ、生きている意識の内容そのものであり、意識とともに未生前にまで遡る。神の記憶にまで遡るだろう。「時間」は観念形式か、記憶に充たされたものとしてかである。記憶の謎を解くことは時間の謎を解くことである。時間そのものを抽象的に問うことはできないし、それはせいぜい、意識主観の傲慢な〈存在処理〉というおぞましい存在論的裏切り行為の言い訳になるだけである(…)。
これを書いている時も、ぼくの気持を嗤う如く、書き割り舞台の出し物のように事象がぼくの周りで起こる。真面目さを欠いている。それが悪魔だ。
「原因・結果の法則」なるものは、自己疎外を起こすのみの観念として、内的生活の意識からはきっぱりと排除すべきである。これは論理や事実の問題ではなく、決断の問題である。この観念の普及でほんとうによろこぶのは、悪魔のみである。
人間の感情の動機は本人にしかわからない。悪魔はその事情を知っていて、負の感情の連鎖を惹起させるようなタイミングでピンポイントで事象を起こす。その滑稽なほどの見事さには感心さえする。人間を潰すためにそれをしているのは、既に余りにも経験しすぎている。
法則観念に左右されない内的生活のためには、「祈り」の力が要る。
祈りとは、内的秩序の再建であり、その都度の新生であり、持続の確認である。