(第2部)
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実存の現象の多義性
ならびに
実存開明の働きをする諸言表が誤解される可能性
実存は自らの現象において客観的となるゆえに、この客観性は、そこにおいて可能的実存が語るかぎり、多義的であり、諸々の可知性が一義的であることと対峙的対照をなしている。実存について語ることは、実存が接する一般的なものの側面に触れなければならないゆえに、あらゆる言表、実存を開明したいと思うあらゆる言表は、言表の本質からして誤解される可能性がある。
実存は、いかなる一般的妥当性をも要求しない。実存は無制約性における存在であり、譲渡できるような存在ではない。実存であるところのものは、そのように他の者でもあり得るようなものではない。実存を一般的に妥当なものであるかのように言表する諸々の客観化は、存在言表であったり要求であったり価値判定であったりするが、この客観化において、言表をする者にとっては、たしかに、無制約性と、他の可能的実存への呼び掛けが存在する。しかし、現存在する万人にとって基礎づけ可能な知は存在しない。むしろ、実存が客観的となり、そのことによって一般的となることは、多義的となることなのである。すなわち、実存が客観性と一般性を帯びることは、決して、同一なものに留まるようになることではない。そうではなく、実存開明に留まることなのであり、この場合、一般的なものを媒介とするこの客観化の側面を根拠として共有しつつ、一回的なものであることなのである。この客観化が一義的に一般妥当的なものとなるならば、自己同一性のある実存表現であることは止むのである。実存が自らを、世界の内で現象するものとして、一般的なものの形式において言表する場合、この一般的なものは、遊離するならば、根を有していた時にそれであったものでは、もはやない。すなわち、歴史的現在に基づいて事実的に実存においてあったものでは、もはやない。我々は、悟性的存在者としては、自らの意識一般によって、不断に、一般的なものへと押し迫る。我々が何を為し、何を言っても、それが正当に通用するのは、ただ、それが一般的になり得るかぎりにおいてのみである。一般的なものによってのみ、我々は世界の中へと入り込み、我々は世界にとって存在するのである。しかし、なお更に、このような一般的なものすべてを貫通し、包み越えて、我々は、他者の自己にとって、また、超越者へと関係づけられて、自分そのものなのである。このとき、一般的なものは単なる媒体へと格下げされ、我々は本来的に存在することになる。可能的実存は、世界の内では、自らを、ひとつの一般的なものに言い換えるのであり、この一般的なものは、可能的実存からは分離されることがあり得る。だが実存は一般的なものではなく、一般的に妥当するようなものではないのである。
私は、実存開明を試みることで、様々な客観性において語ることをせざるを得ないのであるから、実存的に哲学しつつ思念されるすべてのものは、心理学や論理学や客観的な形而上学としては、誤解され得るものであらざるをえない。
その結果、最もはなはだしく対立し合う諸項は、取り違えられることになる。すなわち。
a)『私はともかくそう欲するのだ』という激情や恣意において表現されるところの、瞬間の盲目的衝動性や、(20頁)単なる生命あるいは生命煙幕と言うべき見透せない生命力(そこにはいかなる忠実も形成もなく、現存在に結果するためのいかなる形態化作用もない)に対して、客観的には同様に非合理的だが、自由の根源から自らの現実性を自らにとって建設し、自分に内的に結ばれていて何ものも忘却しない、そういう非合理的なものが対立する。ここでは、客観的には恣意のように見えるものが、論理的ではないけれども実存的である生の一貫性の中に嵌め込まれており、このような生を、永遠なる確信の意識は、瞬時の満足にすぎない見かけの確信があるだけの刹那的な煙幕的生と対立させ区別することを知っているのである。
b) 誰かが、他者についてこう言うとする、すなわち、「彼は、自分で最も実際的な問題を説明しているときでさえ、いつも自分自身のことを話題にしている」、と。この場合、二つのことが意味され得る。すなわち、彼は経験的な個人性を巡る自己中心的な関心を捨てていない、という非難か、あるいは、彼はただ誠実で忠実であるのだ、つまり、自らの実存から語っているのだ、という最も内的な賛同か、なのである。誰かが自分自身を無限に重要だと見做すことは、経験的個人性に関する自惚れた狭さを意味するか、あるいは、決定的に重要であること、すなわち、本来的な自己を気に懸けることを、意味するかなのである。
c) 科学に従事する生活において、客観的には混同される外観のあるものがある。すなわち、事柄に即さない、つまり事柄とは疎遠な諸動機から生じている、或る特定の成果への研究者の関心と、研究活動の根拠としての情熱的な愛とが、外観からは混同される。この二つは、非個人的な業績に対置させられる。非個人的というのは、内実においては空虚で、誰か他の者のために偶々役立つだけであるような業績だからである。実存に貢献しつつ研究者を支配する、理念の即事象性は、見かけにすぎない即事象性と混同されることがある。この見かけの即事象性は、際限の無い議論や正当化、固定的な妥当的成果のために、前看板として求められるのである。
d) 実存は、自分自身に基づくという、絶対的に独立した一点を持っている(この一点から実存は、必然的に交わりの中に歩み入る)。この実存の絶対的独立の一点と客観的には似ていて、間違って取り違えられ得るのが、単に経験的な個人性と感じやすさを保護するための、他の者たちを前にして自分に閉じ籠もる態度である(こうなると、いかなる真実な交わりも、もはや不可能である)。
e) 客観的にはその特殊性であるところの、個別的な実存の歴史的なるものは、この実存の存在の現象である。客観的には同様のものである特殊性だが、美事でありながらも際限の無い多様性でしかないものは、魅惑と好奇心と享楽の対象である。絶対的に歴史的な実存は、特殊的なるものという現象のなかに自らを圧縮する。他方、特殊的なるものの無際限性は、混沌としたまま吹き消されてゆくものである。
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このような諸々の取り違えあるいは混同は、実存に遍く見られる二義性の諸例であり、実存の現象と、実存に関する諸言表とに、見られるものである。この二義性は、いかなる知にとっても無くし得るものではないが、自己に責任を持とうとする可能的実存にとっては、無くし得るものである。それゆえ、欺瞞というものは、いかなる単なる知力によっても見抜かれたり阻止されたりし得るものではないが、「咎(とが)」〔Schuld〕として責任を持たれねばならないものである。可能的実存の批判的良心は、言わば二つの世界の間に立っているのであり、この二つの世界は、単なる悟性にとっては一つに見えるのである。すなわち、一方には無意味なものの現象の世界があり、他方には実存の現象の世界があるのである。
この批判的良心の生は、この二つの力を区別し分離する営為なのであり、この二つの力を混同することは、全てを仮象と欺瞞に変じることなのである。しかしこの分離は常に新たに遂行されねばならない。現存在それ自体は、単に経験的なエネルギーを条件としている。実存的なエネルギーは、突き放したり貫通したりすることによってのみ、意識に上り、現実のものとなる。分離の営為は、瞬間的には完全な明晰さに達するが、全体においては決して終結することはない。
とりわけ、実存開明における諸言表が、ひとつの存続するものに関する知のように求められ、この存続するものの現存在は、慰め安心させる力があると憶測されることがあるのは、客観的安定性への意志という、実存に反する意志を源としている。あらゆる哲学することの根本的立場を規定すると、つぎのようになる、すなわち、私は実存を欠いたまま、何かについての知のなかに安らぎを欲し、このものは実存が無くともそのままであり存続すると思われているのであるか、あるいは、私は可能的実存の意識から、このような意志のなかに実存への裏切りを見るのであるか、と規定されるのである。本来的存在は存続しない、という確信において私は、私自身の実存することの不安静さと危険のなかで、あらゆる単に存続するものを包み越えてゆかなければならない。この包み越えは、問題なのは私なのだ、という、根源的な良心をもっておこなわれるのである —。このようにして私は、あらゆる存続するものとしての存在を相対化しなければならないのである。
実存を開明するための諸言表が、存在に関する知の意味において固定化され誤解され得る、ということは、更に、諸々の議論の中でのその諸言表の誤用を、理解させるものである。実存哲学的な諸説明の中でこそ、一時的な意味を持ち、決して客観性の意味を持つのではないものが、誤って、弁明のための決まり文句として使用されるのである。実存的なものを非実存的なものから、真正なものを逸脱したものから、客観的に、個々の場合毎に区別させるような、判定基準を、人は見いだしたいのである。このようなことは、原理的に不可能なことである。世界内の次元では、あらゆる基礎づけと拒絶、吟味と固定化が、合理的な諸手段をもってカテゴリーを通して為されるが、そのようなことこそ、まさに、実存に触れるものではないのである。実存開明においては、妥当的な一般的なものが適用される特殊なものへの関係というものは、もはや存しないのである。あらゆる証明は(22頁)ただ可能的実存においてのみ、実存自身の良心を通して、実存の交わりのなかで在るのであって、根拠づけや反駁というものは、そういうものへの関連においてのみ、手段や表現として、意味をもつのである。
実存を開明するための諸言表が、自分自身の現存在における具体的実存に関する見かけの知と、取り違えられることが起こる場合、欺かれることのない良心が警告し裁断する。この取り違えが、他の人間に向って為される場合、そのような取り違えは、交わりのなかで解消される。交わりにおいては、いかなる議論も、或る存在についての判断を意味せず、いかなる攻撃や正当化も結果しない。攻撃や正当化というものは、ただ悟性から悟性へ、意識一般から意識一般へ、向けられるものなのである。というのも、意識一般が哲学に関心をもつのは、哲学が、誰も否むことのできない諸限界を措定するかぎりにおいてのみであって、哲学がこの諸限界を超えて超越してゆく目的でこの諸限界を探求するかぎりでは、そのような哲学に関心をもつのではないのである。哲学は、しかし、誰にでも妥当する真理として在るのではなく、交わりにおいて在るのであって、諸々の可能性の取り違えや混同から解放されて自分自身を取り戻すために在るのである。
実存に関係させるなら、あらゆる客観的なものは二義性を有することが、明らかにされ、この二義性の解決は、歴史的に規定された諸実存の良心の中に持ち越されることになったが、このことは、諸々の客観的な基礎づけを拒否することを意味するものではない。それら客観的な基礎づけはむしろ、媒体であり続け、この媒体無くしては、疑わしい単なる諸感情が既に真理を主張するであろう。思惟を通して初めて、良心は、決断をする状況を獲得しなければならず、この状況においては、思惟が、良心の敏感さをして決断させるに任せることが出来るのである。
実存を開明するための諸言表は、個別者を一般的な認識の許に包摂して知へと導くものではない故に、「私は一の実存である」という命題でも、意味が無いのである。このような言表は不可能である。というのは、実存の存在は、いかなる客観的なカテゴリーでもないからである。私は可能的実存からして語ることができるが、それは他の可能的実存が私に傾聴するかぎりにおいてである。その場合、両者の実存は、なるほど、互いにとって存在している。しかしこの、「互いにとって存在する」ということは、両者の知にとって存在することではない。実存は、信念としても、信仰としても、絶対的意識としても、知られ得るものではない。
『私は実存する』という言表は、交わりの内でこそ瞬時的な表現として充実させられ得るものであるが、世界の内での要請としては、僭越であり同時に無意味である。世界の内では様々な要求や正当化や理由が意味を持っている。様々な要請を私は、様々な客観性と言表可能性の世界の内で、当の客観性を通して持っている。すなわち、様々な業績や資格や才能や権利、また、措定された課題、という客観性を通して。そして私は、私の現存在のための闘いにおいて、力によって自分を通用させる。しかし私が実存的交わりの中に立つ場合は、要請や影響力の行使といったものは、止むのである。(23頁)とはいえ、私がこのことを逆手に取って、「私はいかなる要請も立ち上げないのだから、私は実存する」、と言うとするなら、私は同様に誤っていることになろう。というのは、現象する実存の二義性においては、私の抑制態度は、力が無いという意味での脆弱さを示すものでありうると同様に、前面に押し出したトリックでありうるからである。このトリックは手段であり、実存哲学的な言い回しを利用しつつ、要求が無いかのような態度を通して、再び要求をするのが目的なのである。
実存開明が意識一般に関連して言表するところのものは、獲得された諸々の客観性への不満から、これらの客観性がすべてであるとされるかぎりは、単に消極的なものである。この不満を通して、諸々の限界が見いだされる。これら限界を超え出てゆくあらゆる積極的な歩み、すなわち、実存の中に押し入る営為は、言表行為において、圧力行使をすることも、要求を立てることも出来るものではない。その営為は、間接的な伝達行為を通して、問いかけと開明を意味するものなのである。
(23頁の終り。「第一章 実存」の終り。 )