ぼくはれっきとした集合容喙現象(いわゆる集団ストーカー現象)の被害者なのだけれど、ぼくのなかでは、この現象は、ぼくを苛んできた諸事象の一つにすぎない。この現象の被害者は、共通して、どうしてじぶんがこのような奇怪な現象に巻き込まれたのか、という感慨を何千回とじぶんでじぶんにもらすようだ。まったくよく解る。そうでない被害者はいない。同時に、ぼくの蒙ってきたのはこの現象だけではなく、小さい時から精神的と身体的の二面から、入れ替わり立ち代わりに苦難を蒙ってきた。拡大解釈すれば、集合容喙現象は最初からずっとぼくを囲んできたと言えるのではないかと思えるくらいなのだ。挫折に次ぐ挫折。そのなかでぼくは生成してきた。ぼくの生は普通の基準では測れない。そのなかで、ぼくはぼく本来のあり方を貫いてきたと思う。そういう意味では、どんな状況も、ぼくが我有化してぼくの生成に寄与しうるものしか起こっていない、とも言える。そのなかでぼくがじぶんを貫けるものしか起こっていない、ということだ。もうだめだと思った時期も何度かあった。しかし不思議にぼくは再生して前進してきた。ソルボンヌ博士号まで取れたのだから、不思議に尽きる。無論、精神的身体的にそうとうなきつさだった。しかし、だから、ぼくを貫けるものしかぼくには起こらないと思っている。人生は量の問題ではなく質の問題である。そして自分を貫けるとき、そこには精神的歓びと精神的余裕がある。外部(あるいは精神的外部)への対応のためにじぶんが散り散りになるということが避けられる。ぼくは不思議に自分を生き得るのだという信仰をこれからももってゆきたい。