真理はそれに拠って自分を立てるものであり、他と争うための道具ではない。1+1は2であって0でも3でもない云々と言うふうに、正しいことを争い・対立の手段とすることは造作も無いことである。どうしてそういうふうにするのか。悟って確信することが他への圧迫、他の否定であるふうに。余計な意識構えをしなさんな、君にはその自覚は無かったかもしれないが。いまぼくは、昔の君の悟ったような確信の裏にある人間的欠陥がよくわかる。その確信の雰囲気による威風の片輪さが。君は悟っていたとはいえないよ。あるいは、悟るとは、それだけならつまらないことだ。1+1は2だ、と悟るのはよい(道元のように)、そのあとどうして、0でも3でもない、と付け加えることをするのか。それは、確信に角をつけることだ。相手をたしなめるには、身も蓋もない否定をしてはならない。「ふくみと情緒」を身に着けなければならない。そうでなければ君は、君の真理によって恨みを買うよ。それをやってきたきみはほんとうに仕合わせではないはずだ、と、君の真理の威風を畏怖してきたぼくは、いま、言うことができる。
ぼくもそうありたくはないものだ。
アランが、悟性を超えるえる自我意志と高邁の心を、デカルトの方法的懐疑の精神に見たことを知る意義は、ここにあると、いま われわれは理解しよう。 厳格な知性の王者であったデカルトは同時に寛容の士でもあったことを、いま 納得できるだろう。