テーマ:

 

節の表題としてこの言葉が浮かんだので覚え書きする。マルセルが「形而上日記」で、同じ問題を、感情と感情の観念との間に存する問題として、掘り下げようと努力している。感情を思念して言葉で思惟するときに、必然的に起こる問題である。ぼくは、ほんとうの善意が生じるときには、自分をも許せる、と思うが、これはあまり拡大解釈しないほうがよい。われわれはそうしてたやすく観念(意識)の網に掛かってしまうから。この網が観念的善意である。これにたいし ほんとうの善意が、実感的善意と呼びたいものである。そう言ってはみるが、主観的に、観念的善意と実感的善意の区別がそう明瞭につくものだろうか。そう思うのは、ぼくがすでに感情の反省の迷路に入っているからである。マルセルもこの、区別を明瞭にすることの困難を記している。反省とは、それ(困難)を意識しつづけつつ、それに耐えて注意を凝らす努力にほかならない、と思う。 反省そのものの節度も必要である。 

 

 

 

「純粋な感情」というものがあるとしても、それはそれだけ一層、「再認」(reconnaissance)には貢献しないだろう、という意味のことをマルセルは言っている(「形而上日記」299頁)。