辻邦生が遺著「薔薇の沈黙 リルケ論の試み」で、リルケ的世界を経験することによる自己の変容を期待し、小説の可能性のためにそこに救いを求めていることは、充分に共感できる。リルケの世界は、それに触れる者を変容させることは、ぼくも経験することだからである。人間関係の脱落、という事実を、ぼくもこの欄で最近証言したように。人間は「もの」になるべきである、と。 ぼくもリルケに救いを求めているのだ。リルケの思想というよりも、リルケの存在そのものに触れることによって。 辻邦生にとってそれは小説を可能にすることだったのであり、ぼくにおいては円満な自己をとりもどすこと、ぼくがぼくの世界に円結することなのだ。