《生… 生… それはひとつの作り話以外のものなの? 多分、けっきょく、生とは、わたしたちが生のなかでそれを見いだすのが、わたしたちに相応であるようなものでしか、決してないのよ。》

 

 

 

「生」をそれ自体として問題にしたり評価したりすることは、空しいことであり、じぶんの生がどうであるかこそが問題である、そしてそれはじぶんの本質がどういうものであるかに懸っている、ということが言われているように思われる。この「じぶんの本質」において、ほんとうの自由が、じぶんが責任をもつものが、問われている、ということも、付言しておくべきことだろう(ちょうどぼくが同時に訳してきたヤスパース「実存開明」第二章「私自身」で論じられている問題でもある)。 ベルクソンの「生の哲学」の性格への批判でもあるのではなかろうか。

 

 

この句の前に、同じ頁で、こういう句もある:

 

《ぼくは、思い上がりにはぞっとする。思い上がりは、ぼくが多分この世でいちばん嫌うものだ。ぼくたちは、自分に嘘をつくためにしか、他人に嘘をつくことを止めない ― そしてそういう嘘こそ、最も軽蔑されるべき嘘だ。》

 

「思い上がり」とは、「自分に嘘をつく」こと、じぶんを実際以上の器と見做すことであり、だからけっきょく、先ずじぶんを騙し、そして、正直に言っているつもりで、他者をも騙しているのである。宗教者とか求道者とか、学者などにも、そういう、他者に有害な作用を及ぼす者たちが多い。そういう虚偽・自己欺瞞を、マルセルは透徹して見抜いていると思う。