数日前(27日)ひさしぶりに三接続あった。自分でも切迫感をもってよく書けていると思う。書かれていること(自分が書いたこと)は、どんなに月日が経っても、かつて起こった事実であり、現実である。ぼくが異常だったからではない。状況が客観的に異常だったのである。いまとなっては笑ってしまうような現実であり、しかし真面目に現実なのである。 いまでも、当時の名残のような奇妙な符合現象は時々ある。しかし構っていられない。 類似の現象に悩まされている他の被害者たちも、じぶんの本来の生活に集中したほうがよい。

 

 

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きょう4接続。 あの、ロボット化した同居者との格闘を、いま思いだすと、笑ってしまう(それほど異様だった)。 ぼくが、じぶんの部屋に退避してドアを閉めようとすると、ドアの隙間に足先を突っ込んで、状況にそぐわぬ聞いたこともない口調で、「もう遅い」などと言うのだ。 ぼくは、同居者の以前の普段の様子を知悉しているから、その口調が同居者自身の人格から出たものではないことは、あまりにもはっきりしていた。生まれて初めての経験で、映画の中にいるとしか思えなかった。

 

 


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自分の仕事・義務として、自分の経験・観察したことを、せっせと記録しておこう。これから言おうとしていることは、言葉としては既にこの欄で書いたはずだが、描写的に書いてはいないと思う。そして、描写的に書いて読者にただ面白いだけの気持をあたえてそれだけで終わってしまうことを危惧する。これは真剣な事実であるからだ。ぼくの空想や錯覚でも、娯楽映画からの引用でもない。 あなたがたは、こういうことが実際に起こるということを、真面目に受け取ることができるだろうか。ぼくがこういうことを報告しなければならないとは、世界はよほどふざけている。ぼくは事実の描写をしたいが、描写力にまったく自信がない。 

 人間ロボット化は、事実起こすことができる。そしてそれは事実としてぼくの目の前で起こされた。これが、われわれが現実に生きている世界である。ぼくの報告することを、事実として、現実として、受け取ってもらわなければ困る。及ばずながら哲学の大学教員を、瑕疵なく務めた人間が、こういうことを報告しなければならないとは、ぼくも不本意であるが、これが現実の世界なのだから、仕方がない。こういうことが起こる世界にいることが、世界にたいする信頼を、どれだけ失わせるか。ぼくが経験・観察したことは、そういうものである。 ぼくはほんとうにこういうことは、事実でも書きたくない。しかし事実だから報告しなければならない。こういうことを報告するのに、ぼくはすこしも積極的ではない。活気づきようもない事実だからである。描写するのもめんどうだから、きっと消極的な描写にとどまるだろう。しかし、これを受け取る読者は、それだからこそ真剣に真面目に受け取って、この、われわれが生きている世界にたいする見方を改めてもらわなければ困る。 

 ぼくは、2010年、東京の例の、電磁波攻撃らしきものを受けたマンションを引っ越した先の、やはり同じ新宿区で近くだが別の住居のなかで、ぼくの同居者が、生きた人間のまま、ぼくの目の前で、なにかのSFか怪奇映画の場面そのままのように、霊的に憑依された操り人形そのものになって、つまりロボット化して言動したのを、目撃し、格闘もしているのである。その凄惨な状況をそのまま描写することは、できないことではないが、多分、いまのぼくの身体に影響のわるいこと甚だしいだろう。 このような経験をすることによって、この世はどういうことでも起こることを知った。 

 

 どのくらい描写できるか、実際に、既に記した以上に描写するのか、ぼくはここで読者に約束しない。ここで息をつく。こういうことはぼくの生の目的ではない。その反対である。 

 

 厳然たる事実のみを、工夫も衒いもなく(そういうものはありようもなく)、ぼくは言っている。

 

 

付言:

自分の同居者に起こったものとしてぼくが持ったこの経験は、最も衝撃的な、ぼくの、世界への見方を変える原点であった。そしてこの後 ぼくの経験したのは、このような「ロボット化」が、他のぼくの周囲の人間、それも生活上身近な人々だけでなく、必要がある時しか会わない人々、医師などにも、つまり社会的に拡散・拡大して起きているという、おどろくべき事態だった。しかし、一つの徹底的事例をぼくは既に経験しているので、その後のこの事態には、もはや原理的にぼくが衝撃を受けるものはなかったと言える。ただその拡大力には、ぼくは驚愕するほかなかった。 「ロボット化」とぼくは表現したが、その「ロボット化」には、様々な程度がありうる、と思っている。一時的だったりすることもあれば、魂の根底に達するものであることもあるのではないか。そして、その時から今までの経過をみていると、一度ロボット化された人間は、ほとんどもとに戻っているように見かけは思われる場合でも、固定観念の植え込みや、記憶の部分的処理が、なにかの力で為されていることに、ぼくは気づく。