ドッペルゲンガー現象は、世界はぼくのなかにあることの証左であるかもしれない。ぼくが、行ったこともない処の地名でも瞬間的に意識すると、そこにぼくを見かけたという者が、それを報告する。勿論、そっくりさんだ、という場合があるし、魔物が報告者に幻影を見せたのかもしれない。それでも、もすこし面白い可能性をかんがえてみることもできるな、と思い、それを記しているのである。世界は、ぼくがなくては存在しない。ということは、ぼくが世界内の或る場処を思念しただけで、ぼくは其処にいるのである。ドッペルゲンガーは、そのぼくの思念行為の具現なのである。目撃者は、其処にぼくの幻影を、ぼくの思念の証拠として見た。幻影とは云っても、その場処を思念したぼくの、思念としての存在なのである。それに、存在とは、思念いがいのものであるのか。思念が存在なら、ぼくは、ぼくが思念することのできるあらゆる場処に存在し、其処を知ったり経験したりすることさえできるだろう。いまだにぼくは、パリや東京を散歩したり、実際に行かなかった北欧やギリシャにも出現して、其処を経験したりしているかもしれない。ぼくの想像力のなかには、実際の世界がそのまま存在している。その証左がドッペルゲンガー現象なのではないだろうか。 

 

 この可能性を意識することは、世界経験の幅を広げるだろう。

 

 過去はどうなのだろう。そのようにしてぼくは過去にも、記憶を通して、しかも超個人的な記憶を通して、参入できるのではなかろうか。