ぼくのどんな行為も必然から生まれているとして、それを同時に ぼくのほうでも自分の意欲として肯定するとき、その行為を自由な行為と呼ぶのだろう。これが、充実した積極的な自由の意味なのだろう。必然は自由を屈服させるものではない。 だが問題はそれで終わったとは、ぼくの感覚が思わないのである。充実とは関係ないぼくの恣意的自由の行為すらも、ぼくの実感とは離れて必然的に生まれていると解するように、不可解な集合容喙的現象の共時性は、ぼくの思惟を促すのだ。このように促されるのは、人間の有している純粋悟性概念(カテゴリー)の制約に拠っている。時間・空間内の現象に関して、人間の理解力の限界内では、そう思惟せざるを得ないのだ。ところが、共時性現象は、この人間の理解力を超えた方法あるいは原理で、生じているらしい。そういう次元がほんとうに在るらしいのだ。異次元世界、そういうものが、われわれが合理的な日常世界と呼んでいるものの背後に、ぴったりとくっついているらしい。そこで悪戯をする存在を、ぼくは悪魔と呼んでいる。

 


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集合容喙現象の示すところによると、ぼくのどんな恣意的な自由行動とぼくが見做すところのものも、存在そのものの必然なのである。