怒りには燃やし方があって、原子炉のように静かに持続的に燃やすのだ。瞬時に燃やせば核爆発になり、共倒れになる。 深い大きな怒りは、時が経つほど新たに発見され増殖する。核分裂反応に似ている。そして理性で制御されているかぎり、むしろ生活のエネルギーになる。怒りで状況が一変するなどというのは、怒りの活かし方を知らないことである。 

 

人生が経過してゆくと、正当に怒らないで過ぎてきたことがあまりに多いことを記憶のなかで見いだしてゆく。怒るべきなのに、洗脳や刷り込みで、正当で自然な怒りを起こさなかったことが多くあるのに気づいてゆく。怒りは、理性的な人間においては、時の経過とともに少なくなるのでは全然なく、全く逆に、多く大きくなり蓄積拡大してゆくのである。理性の展開は、怒りの発見と拡大という展開である。世人がそのように思えないとすれば、それは、目覚めた理性をもつ者があまりに稀であるからにすぎない。人間の深化は怒りの深化にほかならない。激情が鎮まってゆくようにみえるのは、怒りが深く静かに沈潜拡大してゆくからである。これこそ理性の営為である。この世を原理としなければ、この世は怒りの宇宙であることを、理性は見いだしてゆくのである。 

 

 

ぼくはいま、あざやかに自覚するのだが、この世で出会った殆どの人格が、敵なのだ。これを処理しなければ、ぼくの魂の純粋は成らない。理性とは、怒り、敵を意識し、克服する運動である。あの者らに、和解の価値などない。あの者らとの和解の仕方と意味が分からないからである。ただ自己欺瞞でしかない。ぼくの敵意は根源的なのだ。ルオーの信仰の基にある、「人間は人間にとって狼である」の経験と認識を、ぼくはますます理解する。真の信仰は、日本人のいだいているようなものでは、まるでない。 

 よき人間がいるとしたら、ぼくの生まれた地の昔の仲間たちだけだ。ぼくの地はほかとはちがっている(地域が少し違うだけで人間は全然ちがう)。ぼくの親族と知り合いを除いて。 ここにいると、勉強や学問をする人間の虚偽がわかる。そのことにいまぼくは想到している。