きわめて解りやすいことに、文字を使う人間は、己れの実体をごまかすことができる。すばらしい絵を描く代わりに、「すばらしい絵」と書けばよいのである。ここにすばらしい絵がある、と。だから、文章を読んで感心しても、じっさいにその作者に会うと、文章の印象との落差に違和感を覚えたり、がっかりしたりする、ということは、しばしば聞くし、ぼくも経験したことがある。 だが、じっさいに絵を描く者も、その実体は、やはり当てになるものではない、ということは、くり返し指摘し、注意しておかなくてはならない。 

 

哲学者も、文章家も、美術家も、大事なのは「人間」である、とぼくは思う(ぼくの人間主義)。ところが、彼らもみんなそれは言うのである。そしてじぶんたちにおいては「人間」をごまかしている。これははじめのうちはなかなか分からない。彼ら自身、そうとう出来た人間のつもりで生きている。そして、他を判断する資格があると思っているのだろうか。どうもそこのところがいまいちぼくもよく分からないのである。威勢のわりには、ほんとうの自信はないのかもしれない(だから威勢よく断定ぶるのだろうか)。 ぼくのような人間を前にして、ほんとうは自信が揺らいで不安なのかもしれない。もともと自信などないのかもしれない。そう感じることを、ぼくは幾度も経験している。日本の、東京のことである。ともあれ、その後フランスに居て感じたことは、日本人は、いい歳をして落ち着いた人間はほとんどおらず、みな、どこか屈折した弱い面をもっている、ということである。それは、人間の不完全性という一般論には納まらない、日本人に特殊で本質的な問題として、ぼくには意識されている。このことは重ね重ね注意しておきたいと思う。