初再呈示
いまの自分にとって刺激となることを書いている。
森有正はよく楽器演奏と思索とを両立させたなあ。
社会というものは、ロマン・ロランの頃と違うわけではないことを確かめ、妙に慰められる。「社会は、怪物」なのだ。
テーマ:自分に向って
真剣な、書かなければならない言葉は、どのくらいあるか。そのなかでも、自分だけのためのと、共通の利益になるものとの、区別がある。必要による義務感で、書くのは結構。しかし暇つぶしに、あるいは生活の必要から(この二つは内的必然のないことでは同じなのだ)、文を綴るのは、人間生活上のひとつの堕落である。このいみで、文人と芸術家は、同じではない。真の芸術者は、暇つぶしの文を書くようにはけっして制作しない。強制されても、制作の空間においては、絶対的に自由で、自分の内的必然によって創造するのだ。文字を使う者たちにはできない。
文人は詩人でないかぎり芸術者と同等の創造はできない。
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「芸術家が餓死するか、百万長者になるかは、流行の気まぐれと、それに投機する者にかかっているだけである。おのが選良(エリート)を滅びるに委せたり、途方もなく報いたりする社会は、怪物だ。」
「クリストフ」第九巻
芸術のまるで解らない記者が新聞に書いて相場を操作し、大衆を動かすことの愚も、ロランは告発している。 それは措いても、歴史なるものに残る作品というのは、とくに文学の場合、そういう社会における基準となるものにすぎず、真の意味での天才の作品でもなく、天才の行状なるものの徳の結果でもない。
言葉を、言葉の使い手とともに、信用しないこと。言葉は社会である。どんな愚者も、真の賢者と同等に、言葉は使う。活字がその同等性を仕上げる。