特節前節と関連するので、この再呈示節そのものを特節に入れる。

 



テーマ:

   じぶんの継続のために 

 

   人間実存が美的なものに関わる必然性の探索 



テーマ:

 

 

 

 



「存在による関係」 *祈りの思想 より 

 

 

これまで(ここ以前の節もふくめて)で述べてきたことを要約しつつ言うが、キルケゴールとヤスパースの云うように、意識存在である人間は、自己に関わることにおいて己れの超越者すなわち「神」に関わるよう規定されている存在である、とわたしは断定してよいとおもう。人間は自分自身に関わることによって人間なのである。それができない、深められない者は、人間として他者に関わる資格がない、とわたしは言う。それは謂わば動物が群れ集うのとおなじである。わたしはこの人間規定に、「美」と関わる行為性を、「自己-神-関係」における「美」の具体的根源的媒介性(ぼくの魂主義では同時にこの関係の本質性でもあるのだが)のゆえに、この人間規定そのものを観念性の危険から救い現実的ならしめるものとして、入れ込むべきであるとする立場である。この際、同時にわれわれは此の世の悪魔的存在性と直面せざるをえないと わたしは突きとめた。「人間の秩序」と「実在の法」とは根源的に異なるとまで尖鋭的・対峙的に見做す根拠があるとわたしは断ずる。そこで、人間が人間として自分自身に関わる生き方をすることこそ、人間を「存在」たらしめることであり、この人間の根本的生き方に基づいて、「存在による関係」が自他間に成立して生きられる社会こそ、人間文化的に成熟し落ち着いた精神的創造社会となる、という「先進国像」をわたしは確信している。これは「人間とは何か」を真摯に反省すれば必然的普遍的にそうなるのであって、人間の普遍的価値意識に基づく社会展望である。ここで「神」を人間精神の必然的相関者として「信仰」的に措定することは必定である。「神の理念」は、人間がこれと魂的に関わらねば人間として存在しえない必然的理念であり、「人間の秩序」そのものの根源的項として、この「秩序」に内在する本質として、「実在の法」に反抗しても、むしろその反抗の証として措定されるべき必然性がある。この「理念」は単なる観念でも唯の理想でもない。人間がこれに信仰的に関わることによってのみ人間として「存在」し「実存」するところのものであるからである。人間の「存在」を承認するなら同時に同様にその存在性を承認していなければならないもの、それが「神」なのである。「人間意識は神の意識とともに生成する」とヤスパースが不断に云うのはこの意味と根拠においてである。「創造主」に反しても「神」を措定することを虚妄として拒否する者は、同時に「人間の存在」を、つまり自分の「自己存在」を、拒否することになることを、わたしはこの欄で指摘してきた。ここでいっそう明確にし確認する、「神は有るか無いかではない、人間の必然的規定に含まれている」、と。これが「信仰の根拠」なのだ。斯くの如き人間普遍の信仰こそ、誰よりも現代人であるヤスパースがこの時代に復活新生させようとした「哲学的信仰」の芯であり、ぼくの「形而上的アンティミスム」はこれを更に、ドイツ的観念性を超えて受肉的現実性を生きる「魂の路」として各自の内に目醒めさせてもらおうとする営みなのである。

節のはじめに高田先生の「祈り」の像を置くようになった。ぼくの思想のいとなみすべてが、「祈り」をふくみ、「祈り」にふくまれて為されているいとなみなのである

から、魂の渾身で、これまでのわたしの思想を全体凝縮してみた。きわめて大事であり、多くの読者に納得してもらいたい。


補遺 「存在による関係」を成り立たせるものが「無欲性」であり、この「無意志」は「純粋自我への意志」として「自己自身に純粋に関係する(向かう)行動」である。これによって「人間」が「存在する」のである。わたしの読者はよくおわかりとおもう。