このところ、ぼくのなかで、過去の記憶(それにたいしてぼくは直接に感情反応するだけだった)の固い縛りが急に解けて、過去において、どうすれば、問題となったものが改善されていたのだろう、というふうに過去が問題化されてきていることに気づいた。具体的には、とくに現代の学校空間で、生徒・学生は、ひたすら管理の対象であって、個人としての生徒に勉学上の問題があれば、点数ではなく個人に向かい合って、何が問題・障碍であるかを訊き、相談し、共に克服しようとする管理側の態度がまるで無い、という問題。これでは将来に精神上の禍根を残すのは分かりきっているのに放置して卒業させるということをやっている、という問題。これはようするに、教える側の器量がまるで無く体制が整っていないゆえの社会現象なのだ。

 

高ぴしゃに しっかりせよと威嚇するだけでは、人間の放棄に等しい。それを普通の態度として通す学校教育こそは、すべての教育問題の出どころなのだ。

 

ぼくが言いたいのは、精神医学の治療態度の基本を学校に導入せよということだ。生徒の言い分を聞くこと。それは現体制では無理というのならば、それなら公教育の原罪を教師は自覚せねばならない。生徒は、教育というフィクションにつき合わされているのだ、ということを。