初再呈示
テーマ:自分に向って
〈真実〉とは何だろうと思うのである。人間の精神を離れて真実があるのではない。精神とは何か。意志し感ずるところのものである。経験し判断すると言ってもいい。人間の判断が経験を形成すると理解したのはカントである。ぼくはいま、真実を形成する〈判断〉のことをとくに思ってこれを書いている。その判断のありかたに、その人の存在全体が証されているように思うのだ。その判断はその人の真実を要約する。そうぼくは思う。それがよくあらわれるのは、その人にとって大事と思っている人間についてその人がいだく判断においてだと思う。人間は各々別々の個だ。にもかかわらずわれわれは愛するひとについて判断をかたちづくることをたえずしている。そのいとなみなしにはそのひとを愛せないかのように。愛するひとへの判断、それはなによりも愛する本人の真実をあらわすもののように思う。どのようにその判断がかたちづくられたか、それを吟味するならば、その本人の真実そのものがそこにあらわれる。そういう真実はひとつしかないと思う。なぜならそれ以外の判断は不真面目であり、誤謬か、本質的にどうでもよいものだからである。真実は真摯なものでしかありえない。ということはそういう真実をあらわすような種類の判断は本人のすべてが投入されているものであるということである。本人の生の実体が要約されている。そういう意味で本人の唯一の判断であり、このゆえに真実なのだ。運命のように唯一の判断が真実な判断であり、本人の真実そのものなのだ。本人の真実をなによりも証する判断、これいじょうに本人が愛する存在への愛を、その愛の内実を証するものがあるだろうか。そのような判断は純粋に本人のもっとも内奥の魂から生まれかたちづくられるものである。そしてこれだけが判断の真実性の条件である。愛とはすべてそうではないか、真実な愛とは。これが「人間」の証なのだ。「人間」とは真実であることそれじたいだ。カントは、主観の判断がどうして客観に適合するかを問い分析反省する。しかしここ愛の判断においては、なによりも人間(本人)の真実が要約され証される。こう言ってよければ、とてもデカルト的、演繹的なのだ。最も明証的なものから出発し、その上にその他の要素を積み重ねてゆく。そして愛する存在(相手)への判断の〈適合性〉は、もっぱらこのような判断のありかたにかかっている。外見的には何とも逆説的だが、これが唯一真実な〈愛の判断〉なのだ。その出発点が、相手からの根源的な感動であるような判断は、すべてこういうものである。根源において相手に触れ共鳴しているのでなければけっして真実な判断はうまれない。主観性とか客観性とかいう範疇をはじめから超えている。いったい客観的な判断とは何であろうか。感動する主体を離れた判断であればそれはいかなる真実な判断でもない。どうでもいい事象判断でしかなく、われわれがここで問うている〈真実〉とは、端的に言って関係のないものである。ここでわたしは〈真実であること〉を、〈判断をかたちづくること〉に即して自覚してみようとこころみた。あなたはわたしのこの見解をうけいれられるだろうか。
高田先生の、フランスにたいする判断、それはなにより先生自身の真実をあらわすものであるが、すべてこの(上述した)ような先生の根源経験からかたちづくられたものである。先生のこの「判断」についてわれわれはどのような〈客観的判断〉をなしうるとうぬぼれるだろうか。
高田先生の、フランスにたいする判断、それはなにより先生自身の真実をあらわすものであるが、すべてこの(上述した)ような先生の根源経験からかたちづくられたものである。先生のこの「判断」についてわれわれはどのような〈客観的判断〉をなしうるとうぬぼれるだろうか。