じぶんでやることいがいで、いろいろ憤慨することが多いので、不充分ながら今夜はそれを書いておく。

 

 

ぼくはもちろん、馬鹿どものことは問題にしないで、自分の勉強をしていたいし、することができる。だが、ぼくが思考的になるほど、過去の馬鹿どものことも思いだされて、気にしないふりをするより、思いっきり噛みついてやりたくも思う。しかもこの過去の馬鹿どもは、人数が増加している。ぼくが過去を振り返るほど、あいつも馬鹿だったんだな、というように馬鹿が増えている。尊敬すべきひと、一目置いてよい者も、稀にはいるが、そのほか無害な人々を除けば、どうしようもない馬鹿が殆どだ。そして、毎回言うが、学問や学歴と関係なく、馬鹿は馬鹿なのである。馬鹿は知力の低いことではない。知性の欠けている、あるいは無いことである。秀才馬鹿はいくらでもいるじゃないか。馬鹿は、反省無く誤った言動をする者であり、他者に人格的な侮辱や迷惑をかける者である。 さて、馬鹿についてはこのくらいでいいだろうか。

 

 

これに加えて、マスクや消毒手洗いをしているのに所謂感染が拡大しているという問題が提起されている。医療機能確保のために一般市民が奴隷扱いされているのであるが、数字を気にしないことと、マスクや手洗いで感染拡大している可能性をかんがえることが、必要ではないか。実験室のデータのようには実際はゆかないのだ。手洗いしても、蛇口の栓を最後に掴むことで元の木阿弥どころか、ウイルスに触れることにしかならないし、マスクに至っては、無感染・無症状の人間にとっては、公共の場でウイルスをわざわざ自分の顔に付け回ることでしかない(想像できるだろう)。それを思えば、神経質な人間はマスクをして表を出歩くことはできない。(フランスでマスクを義務化したら途端に感染が急上昇しているそうだ。) 体と心の両方にストレスがかかり、健全な免疫力は、現在世界的にどん底状態だろう。人間的に生きられなくなって自殺する問題は、ようやく意識されはじめている。数値上の感染拡大よりも、人間らしい生活が無造作に犠牲にされていることのほうが、遙かに腹立たしい。この腹立たしさがこれをぼくに書かせた。あとはもう個人の決断だ。何のために自分は生きているのかということだ。 

 

 

これだけではない。米国では、秘密情報機関・民主党・偏向フェイクマスコミの結託に加えて、中国人民解放軍のデモ操作が、正常な民主主義的選挙を破壊したことは、ぼくよりほかの人々はずっと詳しく知っているだろう。現在、選挙勝者は承認されない状態にある。共和党は、徹底して問題を追及するだろう。今回の場合、和解などあり得るはずもない。問題追及は〈恥〉どころか、正統民主主義の「正義の貫徹」であり、民主主義の「名誉」の死守そのものである。相手は言葉だけのただのデマゴーグだ。 

 

 

ぼくは政治活動などに一切関心は無いが、一般市民がどれだけ自由にものが言えるかには関心がある。もしこれしきのことも言えなくなったら、ほんとうにこの世にあいそうが尽きるときだ。