日本の非文化性はほんとうに嫌になる。西欧から学ぶべきものを全然学んでいない。こういう作品が創られる背景に、どういう人間の生のあり方があるか。こういうものに接して日本人が想うべきはそれである。ぼくが西欧でも日本人を忌避していたのは、彼らとじゃれあうなら西欧にいる意味が無くなるからである。そういう感覚をもって西欧に滞在していたのはぼくだけで、ほかの者たちは無かった。それでフランスを学ぶというのだから、あきれるしかない。 

 

ぼくは、ほかの者たちとはちがう方向に生きている。これだけは堅持しなければならない。それがぼくの存在の意味なのだ。それをいま自覚した。日本人には望めないのだから、個が、文化の砦である。

 

この自覚が起こった(復活した)ことで、この節の意味は途方もなく大きくなった。 

 

ぼくは、きみに忠実でありつつ、じぶんの歩いてきた根源的な路を歩む。 この「両立」は、いまならできる。 自分の連続性を発見したから。 



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アリスティード・マイヨール(1861-1944)「イール=ド=フランス 」1925

先生が私淑した大彫刻家の中期代表作と目されるものである。学生としてヤスパースに没頭していた頃、もう夕方であったが、不意に上野の国立西洋美術館に行きたくなった。常設されているこの像とまさに出会った。言葉を超えた存在論的充実と和やかさ広やかさに包まれ見ほうけていた。孤独の極限から視界が開け報われ解放された内的空間〔「おお 思索の後の褒賞よ 神々の静けさをとおく見はるかすという!」を想起する-628ヴァレリー「海辺の墓地」-〕。その現前する記憶はこの写真を観る度いつも蘇える。フランスに居て訪れた彼の生地バニュルスの海浜がわたしにとってもっとも親密な地中海である。