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集合容喙などというとんでもないものを経験したことが契機となって、ぼくは、自分が何か失敗しても、その失敗はぼくだけに責が帰せられるものではなく、謂わば全体の責任である、というふうにかんがえるよう、促されるようになっている。 すべては自分の責任であるとして引き受け、そのようにして悔やまないようなる、という心術には、おかしな、無理した不自然なところがある。ほんとうは、全体の責任なのであり、その全体にぼくの意志もふくまれる、と かんがえるのが正しいように、いまのぼくには思われる。つまり、全体が、ぼくにおけるかぎりでは、ぼくの意志するように意志している、と思われるのである。 そのようにして、一見不思議な共時性現象(集合容喙現象の特質)も起こるのだろう。そして、人生ははじめからそのようなものとして仕組まれているのではないか、と ぼくは思うようになっている。 こういうぼくの見解は、唯一実体の自由しか認めないことによって同時に人間の自由をも根拠づけるスピノザ哲学の射程の広さをも証しているようだ。

 

すべてを自分の責任にしているかぎり、人間は緊張の極限に固定され、一瞬も心安らがない。こういう、実際とは乖離した理屈を、スピリチュアリズムは、営業のために手放さない。

 

 

世界がバランスを崩すと、個人のバランスも影響を受ける。それにしても、それへの対応であきらかとなっている、この世の愚劣さはひどい。多くの政治家や医師、メディアが、いい子ぶりながら人間否定にどれだけ傾くかをはっきりさせている。全世界的に知性が欠如している。