人間の表情の見えない日常を自然美の観照で補うことはできないことに、気づいた。自然美を堪能する情緒そのものが、ぼくのなかで相当破壊されている。人間の表情を感知しての日常こそ、自然美堪能力の基礎になっていることを、ぼくは深刻に認識したと思っている。だから、大事なことは、人間の表情の見えない日常を肯定したり受け入れたりしないことである。否定し拒否しなければならない。〈新しい日常〉という造語は、最も忌むべき悪魔の造語だと、ぼくはいまでは断定するに至っている。そういう造語を使って平気なのは、人間の基本感情を等閑視して平気な気でいる似非(えせ)合理主義者のみである。すくなくとも、一時的にやむを得ない生活上の措置でしかなく、決して正常な生活形態ではない、という、否定の意識を持することが重要である。〈新しい〉などという付加語は、そういう重要な意識を隠蔽するものである。そのことをぼくは最初から気づいて言っているのであるが、責任者たちはそこまでの知性も働かずに国民を〈指導〉しているようだ。人間は、多くの医師がいまだに発想の前提としている唯物論的な身体のみで生きているのではない。必要あってのマスク着用をぼくは全然否定しないが、いまの全市民マスクの責任化は、人間意識として間違っていると、ぼくは断定する。〈マスク〉という、もともとあるものも、間違った観念がこびりついて、言葉を記したりすることさえ不快で嘔吐を催すものになって久しい。