いまの日本は、ぼくの経験を後追いしている。これについてはいずれまた書く。いまは題だけ記しておく。 

 

 

その書くべきことをここに書く:

ご承知の通り、ぼくは集合容喙現象という、凄惨な現象を経験している。この現象が、ここまでひどいものだとは思わなかった。まさかと思うようなことが、外的にも内的にも起こった。これについては詳述している(テーマ:集合的容喙現象)。世界もそうだが、いまの日本は、ぼくが集合容喙現象として経験したものを、勿論、ぼくのと同類のものとしてではないが、その凄惨な生活破壊性において相当同質と言えるかも知れないものとして、経験しつつある。そうぼくは感じるところがある。「相当同質」と言ったが、現われ方は違っても、〈人間にたいする存在の悪意〉が感ぜられることで、同質だとぼくは思うのである。まさか、まさか、と思うことが、起こるのである。ぼくが孤立して経験した苦しみを、いま、社会そのものが経験しつつあるのなら、これは、集合容喙の対象が個人ではなく社会そのものとなった現象のように、ぼくには感ぜられている。

しかし、過去、1918年から1920年にかけても、同じ種類のことで、世界で2000万から4000万の人々が死亡し、日本でも30万人以上が亡くなった。世界と日本は、それでも生き延びてきたのである。これも、ぼくがあの現象の被害で、自分の学問的研究の継続を断念させられたが、それでも生き延びたことと相応する。だが、ぼくはこの経験で、生きる意識が変わった。そのように、いまの日本も生き延びるだろうが、この機会に、日本人の生きる意識が変わってほしい。日本が、〈文化よりもスポーツ・オリンピック〉、で爆走していたら、日本はますます精神秩序の無い餓鬼の国になっただろう。いま社会で推奨・要請される態度は、「おうちに居よう、みんなのために」 である。事態の必然とはいえ、こんなに180度変わるとは想像もしなかった。社会の風向きで、節操無く どうにでも軽薄に変わるのが日本人であり、哲学が無いからであるが、それでもぼくは、この機会に、「孤独の力」に目覚めてほしいと思う。スポーツやオリンピックの国ではなく、文化の国になってほしい。一億総俄か神経質になった後は、一億総隠遁修道士精神会得で、この精神に留まってほしい。日本人は、精神的内面性に覚醒めなければならないのだ。今回の国難には、内的必然性の無いオリンピック招致に はしゃいだ―そういう人間性がいまだに直らない―日本への、天の、たまりかねての懲らしめの意味が、間違いなくある。昨年の文化の日に、文化勲章受章者の紹介もせずに、あきらかに「文化」否定のつっぱりでラグビー・スポーツに浮かれたことへの罰である。日本は大人にならなければならない。

 

 

以前の日本が軽蔑されたのは、人間文化を否定して武力に専一したからである。その再動が、ラグビー等における自己犠牲態度の称揚にはあきらかにある。ぼくは徹底的にラグビー嫌いである。自分の身体は、自分の神聖な魂的成熟のための器である。格闘のために損なうものであってはならない。