絵描きというものは、学歴とは関係ない人間の根本感覚に目覚めているつもりなのだろうが、日本では、この感性族には、根本的な欠陥があって、それは、思惟が世俗性に根づいたままだということなのである。すなわち、真の知性が開発されていない。(開発されていれば思索家か詩人になっているだろう。) これが、ぼくが、過去にこの種族に接していて、いちばん経験していたことである。日本の知識人と同じ問題なのである。 各々がもつべき真の哲学、それは、知識や感性とは別の、知性に目覚めることなしには開発されない。 

 

 

 

ぼくのなかで現在、あらゆる人間領域での哲学すなわち知性の不可欠さを確認する意識が強まっているので、こういう覚記は、本質的な意味があるのである。

 

 

 

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卑しい者は、感性的にすぐれたところがあって美術などできても、やはり物事に卑しい反応しかできないことを、ぼくは知っている。美術だけ追究していても、それで精神まで向上することはないことは、解りそうなものだ。とくに日本のような、「神」を求める伝統のない社会に生きていて、日常の生き方ではどっぷり普通の日本的世間感覚で発想している民である者は、美術とは別の人間陶冶をじぶんの内でどれだけしているかで、美術そのものの質も決まる。それをしないと、教会伝統に触発される社会に生きている欧州の美術家に、人間としても美術としても、永久に天と地の差である現状のまま、かなわない。芸術領域全般でこの事情は同じである。語ることを聞いていれば、明瞭に判る。