原点想念を繰りかえし確かめることは大事だ。初心のスケールに立ち返る。
2015年02月26日(木) 00時42分08秒
テーマ:形而上的アンティミスム
すこしでも俗な波動はうけつけない。あなたはそれでよいのです。そうでなくてはいけません。ぼくもそうです。
形而上的アンティミスムの理念において最も重要なのは、何らかの法則性など全くそれ自体問題でないということ、個人が実体性を獲得しなければならないということ、この実体性は意識的に法則性に沿う結果ではないということだ。この理念は、そういう意識をはたらかせているかぎりぜったいに自己の自己にたいする親密性(アンティミテ)は得られないという経験に基づいている。そのいみで反法則主義なのだ。美学という知や学問に基づいて芸術家になったような者はひとりもいないはずであるのと同じだ。そこに、ぼくが体系的な展開叙述をこの理念においてはけっして為しえない理由があり、いまのようなかたちの実践を積み上げてゆくしか、この理念の真意が伝わらないことの理由がある。格言箴言の発信などまったく問題になるはずがなく、ひたすら自分が自分に親密になる過程を身をもって示さなくてはならない。自分の生を示すことがそのまま他者への真正の触発になるのだ。それいがいは架空事であり観念上の自己満足にすぎない。観念論にたいする「実存」とはほんらいそういうものである。自分の存在で、背中で、他者を非意図的に自ずから触発することになる。芸術とおなじであり、具体性に憑かれた実存的思惟と「ものに即してかんがえる」アラン的合理思惟とは、ここで出会う。
想念をあまり綿密にみきわめようとすることは時々内実をとりにがして観念化することになる。実感のまま、未だ判明でなくとも書き留めるのがよい。今朝ぼくにあらためて明瞭にこみあげてきた想いは、創造主と神とはやはり同じものではないという想いだった。宇宙をどう探究したって創造主を感知することはあるかもしれないが(「宇宙には意志がある」という確信のように)、それはだんじて魂として人間がもとめる神ではない。形而上的アンティミスムが求める神ではない。これいじょう明瞭なことはないのである。
いまこの瞬間わたしに到来した想念をしるす。あらためて到来した。これは社会に気に入られるための欄ではないからはっきり言っておく、わたしに触れる(わたしの心と体を害する)者、触れた者は、かならずみずからが損われる。たとえ創造主であっても。
これはわたしの謂わば「無花果の木」の信仰である。