初再呈示。集合的容喙現象の主題枠に入れる。



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「しっかりしている人間」の陥穽として、自分を不当に「ふつうの人間」として扱いすぎる、ということがある。とくに、自分が「病人・不具者」である場合、自分がふつうでないことを往々にして無視しすぎる。これは他人にとっては、「立派」であり、「手間がかからない」態度となる。普通人のように振舞い、自分たちと同じ人間を演じて、それで宜しと済ませてくれるからである。彼の態度は自分たちに都合がよく、それだけに称賛に値することとなる。「それが世間だから」という意識とともに、「それが人間の道」という規範意識が通用することとなる。 どうもこれはおかしい、とぼくはおもう。ぼくのことを言っているのである。ぼくは「しっかりした人間」でありすぎるのではないか。その結果、ぼくの状態を知らない人間と同じ目線で自己評価してしまっているのではないか。これは、ぼくの身に起こったことを無かったことにしてしまうのと殆ど変わらない。いまでも、書く行為でさえ、ふつうは書けない状態で敢えて試みていて、その都度どうにかやりきっているのにほかならない。たいへん酷い状態がずっと常態でありつづけているのである。ぼくが努力しているほど、ぼくの抱えているものが無視されてしまう。そして自分でも自らに精神的に不当に厳しくなってしまう。ぼくはもっと、世間、この社会・世界が、ぼくに借りがある、負債があると見做してよいのである。もっと我儘になってよいのである。それをわれ知らず自分に禁じてしまうのが、「しっかりした人間」の逆説なのである。ぼくにかぎらず、酷い状態と状況にある集合容喙被害者みなに言えることである。わたしたちは、世界に当然要求してよい償いを、敢えてしないで世界と付き合っているのですよ、そこのところを間違いないようにしてくださいね、と、絶えず言ってよいし、言うべきなのである。われわれが受けている状態と状況は、自然の、自然や因果の法則に適ったことでは、けっしてないのだから。