自己の地道な仕事に向かわず、他者を世話することに向かう者ほど、じぶんの感情の自己満足を求めている自己中心者であることが多い。

 

 

 

不細工なほど青いと思われようと自己をつらぬく者が、けっきょく本物である。恥ずかしいと思わないこと。

 

(悟い構えの者が偽物であるのは、アプリオリに自明なこと。恥ずかしいの一言。)

 

 

 

悪魔は、引けば押してくる。人間の深化の助けなどしない。それを助けであるかのように我有化し、押されないようにするのは、本人の器量である。

 

 

 

ぼくは、スピリチュアリズム系の実際を批判するが、何の志も無いほかの日本人よりも、はるかに相手にできる。この志の無い者が、じぶんに留まっていればまだよいが、よけいなことに、頼まれもしないのに他者を批評するにいたっては、喝をいれなければならない。そういう日本人はたくさんいるようだ。正真正銘の( )というべきである。じぶんがふらふらしているから、他者になにか言いたくなるのだろう。さいていだな。こんな者と付き合うほうもたまったものではないだろう。めいわくをわきまえない者らである。こういう者らが一方では西欧の一級書籍を読み評する。精神の操が無いのが日本人の特徴なのか。

 

 斬捨御免