スピリチュアリストの原則論というのは、この世界の真に二律背反的な面、ヤスパース的には、限界状況の面を、見ないことにするという態度の上に成り立っている。そういう、本当に否定的な世界の面を示してくれたのが、超地上的(超自然的)な本質を有している集合的容喙現象である。この現象については、このぼくの欄の主題別編成枠のなかで、ずいぶんと証言してきているので、ここでは繰り返さない。スピリチュアリストが、そういう世界面の無視を決め込み、あるいは事実上詭弁的に、そういう否定的面をも、自らの原則論に溶かし込む言説を通すかぎり、ぼくは彼ら(彼女ら)を、真面目さという点で、否定する。そこには真の理想主義も人間主義もないからである。真の「理想主義」も「人間主義」も、この世の不条理をごまかさず、決意的に克服するところにしか、ほんらい、ないからである。「信仰」も、「神」も、そこにしかない。これがぼくの形而上的アンティミスムの立場である。この世の二律背反性を、もういちど、「人間」の境位から、逆転する。「芸術は反運命的なものだ」というマルローの言葉の真意も、そこから了解される。
これほど、「教育的」な境位もないだろう。
これがぼくの、集合容喙被害者への、激励の言葉でもある。「自分自身となること」へ「決断」したまえ。人間の真実を知り生きることにくらべれば、宇宙の真相がどうであるかなどは、つまらないことだ。この思いは、ソクラテスとプラトン以来、変わらない。
「自分自身であろう」、とすることによって状況ははじめて変わる。ぼくはこれをスピリチュアリストの原則論から言っているのではない。