「 彼は弾き、彼女は歌った。・・・ 彼女はこの壮大な世界に、さながら自分の世界であるかのように、堂々と入って行った。・・・
これは私が創ったのか、あなたが創ったのかと、わからなくなる。
歌うときには、もう自分でなくなるのではありませんの?
私はね、あなたが歌っているときだけが、あなただと思うんだ 」
第九巻
読むとは、たちどまることである
ぼくに欠けているのは好奇心だ。おそろしく欠けている。 そういうぼくにぼくは信頼する。
好奇心の無い人間、自分に満ちている者にとって、読書は最高の律儀である。無根拠な、殆ど自己犠牲である。
ぼくに好奇心があるとすれば、自分の形成しているものの間違いなさへの配慮・関心である。
ぼくは愛で読書などしない。愛するものは本のなかにはないから。
愛があるから分裂するのであって、これは正常なことである。だから人間は、神を介してしか、第三者とは関わらない。
理解しないで判断するのが他者というものだ。どんなに「正直な感想」であっても。むしろこういう「無知な正直」というものが、その「人格」力によって最も傷つける。日々懺悔しない者は、その「正直さ」故に罰せられる。
不当な判断に抗弁しない潔さをもつ者は、その潔さのゆえに、記憶のなかで一生苦しむ。
人生とは、デカルト的に他者を否定すること、非人情となることを会得することである。
自分の空虚をもてあましている者は読書家になるがよい。ぼくはそれより一段高い人間で、自分の意識との熾烈な闘いと、自分の魂への沈潜に専一する者である。
まあしかし何だって、他人の人生経験と想像と解釈を、ぼくは知る要があるのだろう。もっと早くこのようなものを知らなくて、よかった。ぼくより品格(本質的なものへの純粋感覚)があるわけでは全然なく、その逆だ。文豪であることなど、なんら品格の基準にはならない。世俗のことを知っているだけだ。
これはいい:
「偉大な人間は、他の誰よりも子供である」
教養なるものへの感覚と畏れを知っているぼくの率直さは、現代の大方の者たちの それらを知らないでの率直さとは、わけがちがう。
以前のぼくが学生時代の教授たちにしてもそうだ。互いにおとなだろうと思って態度をとっていたが、まるでこちらを舐めていたと いま思う。それほど、こちらがあやしていたということだ。
人間は、自分の自尊心というものは反省できないものだ。