自分へ
ぼくはこれだけの思想を持っているのだから、絶望したり不安に思ったりしている暇は無い。 (自分への叱責として)
ぼくは私的にも公的にも英雄である必要はない。ただヤスパース的意味で「超越」しなければならない。これは瞬間瞬間、し直さなければならない。身体的条件を無視するのは似非超越である。身体的条件を冷静に配慮することを一方でしながら、超越するのだから、繰り返しし直すのである。 そしてこの超越することは、人生を完成させることではなく、生きるに値する思想を支え保つためなのである。ここに「ヤスパース」と「リルケ」が相補う生境位がある。これが最も現実的な「人間の生」なのである。
公へ
公に向かっては、容喙被害者個々の、加害側解釈論を主張するのみであってはならない。実証的な主張は、ぼくのような手堅い事実の集積提示によってのみ、なし得るのであり、これのみ説得力がある。得体の知れない隠密状況に、被害者も健常者も組み込まれているという根本事実を、特殊化することなく、世界そのものの現実の不気味さとして、啓発的に証言し訴える必要がある。被害者の、この世の研究は、自由に行うべきであるが、研究による推定を直接 公に訴えても、まず効はない。人間社会が得体の知れない状況に巻き込まれているという無規定な包括状況そのものを、公に訴えて覚醒させるべきである。そのためには、ぼくの積み上げている事実提示がいちばん効果があるのだ。被害者は、公に訴える方法を、意識的に確立すべきである。それをしないでは社会はぜったい動かない。