ぼくはじぶんの意識しかわからないけれど、ぼく自身はきわめて自己同一性の高い人間であって、人並みに気分の変調はあっても、根本的には同一の自己が根強く持続していると思っている。 ここで問題にしたいのは、ぼくのことではなく、具体的にはぼくがじぶんの生活環境で接触するぼく以外の人間たちのことである。ぼくからみれば、彼らは、多重人格ではないのか、と思えるのである。つまり、なにかのきっかけがあれば容易に他の人格に呑み込まれてしまうか、人格の操作を受けてしまう。これはぼくが経験的に確かめてきたことであるから、事実と断定してよい。いうまでもなく、ぼくの集合容喙経験とはそういうものである。 

 

 たまたま、いま、このことをあらためて記しておきたい気持が生じたので、これまでの文脈とは関係なく記しておく。そして、そもそも自己反省意識が曖昧でいいかげんな一般通常者は、もともとそういうものではないのか、という、ぼくのむかしからの思いを表明しておく。意識の未分化、といったらいいだろうか、つまり、無意識的な自己欺瞞にみちているのが、一般通常者なのである。こういう者たちは、容易に、じぶん以外の他のものに憑かれる。これが多重人格性である。こういう下地がないと、あの集団的憑依現象は起らないだろう。 

 

じぶんを反省点検する契機にしていただきたい。集合容喙現象が起るのは、ふだんの各自の意識のあり方にも一端の責任はある、と思う。

 

哲学するとは、ほんらい、自己意識のそういうところをしっかりさせる、内的な自己鍛錬であるはずである。