集合容喙には、負の面だけでなく積極的な面もあり、それに気づくのは基本的なことだ、と言う被害者が、嘗ていたが、それは甘い理解だとぼくは思う。内的生活における、どうでもいい少しの行為でも、評価的な容喙現象を起こし、内的な金縛り状態に陥れるのが、向こうの原理である。そういうことを日々確認する経験が、様々な瞬間に、現在もある。 もし、魂の鍛錬のような原理があるのなら、ぼくに薬害状態を強制したことは、鍛錬の限界を越えることである。そういうことが、基本的に五体満足な被害者には解らない。
時々ある容喙現象を告発するのは、その作用を精神的に打ち砕くために必要なことである。基準はぼく自身の内にあると信じ断定することは、あらゆる検証や反省に先立って、自己を維持するために、むしろ強制される態度である。 向こうには、根本的なもの、すなわち品位が徹底的に欠けている。 被害的状況は去ったらしい、とぼくは言ったが、動じない程度のものになった、ということである。こちらが動じないと、実際、動じない程度のことしか起こらない。