四年前のきょう
「想念(記憶)が現実の世界なら、死はぼくにとって唯一の輝かしい生への門である。だから生きるもまた佳いのだ。」
そのひととの愛において そのひとの本質を信じる。
そのひとの思想への共鳴によって そのひとの本質を信じる。
テーマ:自分に向って
再録(769節より):
真理とは品格のことだ。美意識と言い換えてもよい。真理を言葉にするには品格がなければならない(ブッダの説法の力は品格にある。「善く説かれた言葉」の重要性を彼は言っている)。「正しいこと」なら誰でも言える。見聞して体調が悪くなる語り口は真理破壊と同じだ。「悟る」とはまずそれに気づくことだろう。
「神」は、「在るか在らぬか」(という問題)ではない。自己に面しての精神態度(の究極)なのであり、これが信仰だ。これが解らぬ者は、神を否定して自分の人格も落とす。
宗教・神を標榜する者にも、宗教・神を否定する者にも、悪魔は居るのである。ぼくからみれば表裏だ。「自分」にたいする態度がまっとうでない者、「神」をただしく肯定する意味を知らない者は、すべて(事実的結果的に)悪魔の軍門に降る。
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高田先生を論じるまえに、ぼくがぼく自身の根源から「高田博厚」なのである。 孤独の持続、友情と愛情との親密、そこではじめて思念される神、これがこの欄の主題であり、この総体が「魂主義」、形而上的アンティミスムである。それは「触知しうるイデー」としてそれ自体「証(あかし)」をもとめる思想である、すべての思想がほんらいそうであるべきように。「魂」は「実証」されなければならない。いまぼくは東京の夕暮れの馴染みの、追憶の場空間の空気のすずしさを感じた。あの清涼さがぼくには必要なのである。
真の思想とは、自分がそれによって生きうる思想である。キルケゴールの言を俟つまでもない。
想念(記憶)が現実の世界なら、死はぼくにとって唯一の輝かしい生への門である。だから生きるもまた佳いのだ。
「夢」はそれ自体が聖なるものであり、生きる力なのだ。
日本社会は人間の形而上性に目醒めるべきである。欧州は生活においてその伝統がある。人間の崇高さを知っている。キリスト教が人間内面の尊厳価値を徹底して育んできた〔そういう意味では、執拗な神学論争も人間意識の深化に甚大に寄与したであろう〕。向うに居て日本との対比においていちばん感じていたのはそれだと、いま気づいている。
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「聖」と「俗」を分かつのは、「自己」を放棄しない志の有無である。
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わたしがこの欄で〈集合的容喙現象〉としてテーマ編成しているものの総体的本質についてのわたしの見解をあきらかにしておこう。それは、この世とあの世(実際には表裏一体)の霊体どもが織り成すネットワーク社会の、その大半は俗物達の、独断的懲罰支配体制なのである。賢明な霊魂は関わっていないと思う。だが賢明な者は常に少数であり、集合的には無力である。この世の戦争を防止できないのと同様である。たぶん不純な霊媒達がおり(或いは技術装置に類するものがあり)、権力者の意思を霊界に伝播し、霊界を通じて現世の人間どもを霊的に洗脳させる術を知っている。
(ぼくのオリジナルなこの理解は、だいたいこのとおりであることが、確かめられてきている。)
わたしのとるべき態度ははっきりしている。